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太宰治「火の鳥」8
そのころの東京には、モナ・リザをはだかにしてみたり、政岡の亭主について考えてみたり、ジャンヌ・ダアクや一葉など、すべてを女体として扱う疲れ果てた好色が、一群の男たちの間に流行していた。そのような極北の情慾は、謂わばあの虚無ではないのか。しかもニヒルには、浅いも深いも無い。それは、きまっている。浅いものである。さちよの周囲には、ずいぶんたくさんの男が蝟集した。その青白い油虫の円陣のまんなかにいて、女ひとりが、何か一つの真昼の焔の実現を、愚直に夢見て生きているということは、こいつは悲惨だ。
「あなたは、どうお思いなの? 人間は、みんな、同じものかしらん。」考えた末、そんなことを言ってみた。「あたしは、ひとり、ひとり、みんな違うと思うのだけれど。」
「心理ですか? 体質ですか?」わかい医学研究生は、学校の試験に応ずるような、あらたまった顔つきで、そう反問した。
「いいえ。あたし、きざねえ。ちょっと、気取ってみたのよ。」すこしまえに泣いていたひととも思われぬほど、かん高く笑った。歯が氷のようにかがやいて、美しかった。
その橋を越せば、入舟町である。
「寄って行かない?」あたしは、バアの女給だ。
部屋へはいると、善光寺助七が、部屋のまんなかに、あぐらをかいて坐っていた。青年と顔を見合せ、善光寺は、たちまち卑屈に、ひひと笑って、
「あなたも、おどろいたでしょう? おれだって、まさに、腰を抜かしちゃった。さちよ君はね、いつでも、こんなこと、平気でやらかすものだから、弱るです。社へ情報がはいって、すぐ病院へ飛んでいったら、この先生、ただ、わあわあ泣いているんでしょう? わけがわからない。そのうちに警視庁から、記事の差止だ。ご存じですか? 須々木乙彦って、あれは、ただの鼠じゃないんですね。黒色テロ。銀行を襲撃しちゃった。」
憮然と部屋の隅につっ立っていた青年は、
「たしかですか?」蒼ざめていた。
「もう、五六日したら、記事も解禁になるだろうと思いますが。」善光寺は、新聞社につとめていた。
さちよは、静かに窓のカーテンをあけた。あたしは、病院でこの善光寺助七の腕に抱かれて泣いたのだ。
「あなたは、いつから来ていたの?」冷い語調であった。
「おれかい?」死んだ大倉喜八郎翁にそっくりの丸い顔を、ぱっとあからめ、子供のようにはにかんだ。「ほんの、少しまえです。
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