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太宰治「火の鳥」38

死んだのだ。いまは人間、誰にもめいわくかけずに、自分ひとりを制御することだけでも、それだけでも、大事業なんだ。それだけでも、できたら、そいつは新しい英雄だ。立派なものだ。ほんとうの自信というものは、自分ひとりの明確な社会的な責任感ができて、はじめて生れて来るものじゃないのか。まず自分を、自分の周囲を、不安ないように育成して、自分の小さいふるさとの、自分のまずしい身内の、堅実な一兵卒になって、努めて、それからでなければ、どんな、ささやかな野望でも、現実は、絶対に、ゆるさない。賭けてもいい。高野幸代は、失敗する。いまのままですすめば、どん底に蹴落される。火を見るよりも、明らかだ。世の中は、つらいのだ。きびしいのだ。一日、一日、僕には、いまのこの世の中の苛烈が、身にしみる。みじんも、でたらめを許さない。お互い、鵜の目、鷹の目だ。いやなことだ。いやなことだが、仕方がない。」
「負けたのよ。あなたは、負けたのよ。」かん高く叫んで、多少、呂律がまわらなかった。よろめいて、耳をふさぎ、「ああ、聞きたくない、聞きたくない。あなたまで、そんな、情ないことおっしゃる。ずるい、ずるい。意気地がない。臆病だ。負け惜しみだ。ああ、もう、理屈は、いやいや。世の中の人たちは、みんな優しい。みんな手助けして呉れる。冷く、むごいのは、あなたたちだけだ。どん底に蹴落すのは、あなたたちだ。負けても、嘘ついて気取っている男だけが、ひとのせっかくの努力を、せせら笑って蹴落すのだ。あなたは、いけない。あなたは、これから、さちよに触っては、いけない。一指もふれては、いけない。なんて、嘘なのよ。あたしは、とてもリアリスト。知っているのよ。あなたの言うこと、わかっているのよ。知っていながら、それでも、もしや、という夢、持ちたいの。持っていたいの。笑わないでね。あたしたち、永遠にだめなの。わるくなって行くだけなの。知っている。ああ、いけない、はっきりきめないで、ね。死にたくなっちゃう。だけど、さちよだけは、ああ、偉くしたい、偉くしたい。あの子、頭がいい。あの子、可愛い。あの子、ふびんだ。知っている? さちよは、いま、ある劇作家のおめかけよ。偉くなれ、なれ。おめかけなんて、しなくてすむように、――」
 青年は、立ちあがっていた。
「誰です。どこの人です。案内し給え。」さっさと勘定すまして、酔いどれた数枝のからだを、

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太宰治の歩み