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太宰治「火の鳥」37

生みの母親と一緒に転々した。それは苦労した。僕は知っている。あの人は、偉くなることに努めた。自分を捨てた父親を、見かえしてやろうと思っていた。ずば抜けて、秀才だった。全く、すばらしかったなあ。勉強もした。偉くならなければいけないと思っていたのだ。歴史に名を残そうと考えた。けれども、矢尽き、刀折れて、死ぬる前の日、僕に、親孝行しろ、と言った。しのんで、しのんで、つつましく生きろ、と言った。僕は、はじめ冗談か、と思った。けれども、このごろになって、あ、あ、と少しずつ合点できる。」
「いいえ、そんなんじゃない。」数枝は、なかなか譲らない。酔いと興奮に頬を染めて、「あなたは、それでいいの。ご立派な御家庭に、なに不自由なくお育ちになって、立派に学問もおありなさることだし、ちゃんと御両親もそろっておいでのことでしょうし、それは須々木乙彦でなくったって、あなたには、親孝行なさるよう、お家を大事になさるよう、誰だって、しんからそれをおすすめするわ。だけど、あたしたちは、ちがうの。そんなんじゃない。一日一日、食って生きてゆくことに追われて、借銭かえすことに追われて、正しいことを横目で見ながら、それに気がついていながら、どんどん押し流されてしまって、いつのまにか、もう、世の中から、ひどい焼印、頂戴してしまっているの。さちよなんか、もっとひどい。あの子は、もう世の中を、いちど失脚しちゃったのよ。屑よ。親孝行なんて、そんな立派なこと、とても、とても、できなくなってしまったの。したくても、ゆるされない。名誉恢復。そんな言葉おかしい? あわれな言葉ね。だけど、あたしたち、いちど、あやまち犯した人たち、どんなに、それに憧がれているか。そのためには、いのちも要らない。どんなことでも、する。」ふっと声を落して、「さちよは、可愛そうに、いま一生懸命なのよ。あたしには、わかる。あの子を少しでも偉くしてあげたい。」
「待て。」青年は、その言葉を待ちかまえていた。ゆっくり、煙草に火を点じて、「君は、いま、あの子を偉くしてあげたい、と言ったね。それは、間違い、書取《デクテーション》のミステークみたいに、はっきり、間違い。人は、人を偉くすることができない。いまの、この世の中は、きびしいのだ。一朝にして名誉恢復、万人の喝采なんて、そいつは、無智なロマンチシズムだ。昔の夢だ。須々木乙彦ほどの男でも、それができずに、

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