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太宰治「火の鳥」31
もったいなくて、あの子のことだったら、どんなことがあっても、たとえあれが、人殺ししたって、わたくしは、あれを信じている。あれは、情の深い子です。ほんとに、よろしくお願いします。
そう言って、軽くお辞儀をし、さちよも思わずそっとお辞儀をかえして、ゆくりなく顔を見合せ、ほ、ほと同時にはなやかに笑って、それから二人、気持よく泣いた。
十時に三木が、酔ってかえった。久留米絣に、白っぽいごわごわした袴をはいて、明治維新の書生の感じであった。のっそり茶の間へはいって来て、ものも言わず、長火鉢の奥に坐っている老母を蹴飛ばすようにして追いたて、自分がその跡にどっかと坐って、袴の紐をほどきながら、
「何しに来たんだい?」坐ったままで袴を脱いでそれを老母にほうってやって、「ああ、お母さん。あなたは、ちょっと二階へ行ってろ。僕は、この子に話があるんだ。」
二人きりになると、さちよは、
「自惚れちゃ、だめよ。あたし、仕事の相談に来たの。」
「かえれ。」家に在るときの歴史的さんは、どこか憂鬱で、けわしかった。
「御気嫌、わるいのね。」さちよは、平気だった。「あたし、数枝のアパアトから逃げて来たの。」
「おや、おや。」三木は冷淡だった。がぶがぶ番茶を呑んでいる。
「あたし、働く。」そう言って、自分にも意外な、涙があふれて落ちて、そのまま、めそめそ泣いてしまった。
「もう、僕は、君をあきらめているんだ。」三木は、しんからいまいましそうに顔をしかめて、「君には、手のつけられない横着なところがある。君は、君自身の苦悩に少し自惚れ持ち過ぎていやしないか? どうも、僕は、君を買いかぶりすぎていたようだ。君の苦しみなんざ、掌に針たてたくらいのもので、苦しいには、ちがいない、飛びあがるほど苦しいさ、けれども、それでわあわあ騒ぎまわったら、人は笑うね。はじめのうちこそ愛嬌にもなるが、そのうちに、人は、てんで相手にしない。そんなものに、かまっている余裕なんて、かなしいことには、いまの世の中の人たち、誰にもないのだ。僕は知っているよ。君の思っていることくらい、見透せないでたまるか。あたしは、虫けらだ。精一ぱいだ。命をあげる。ああ、信じてもらえないのかなあ。そうだろう? いずれ、そんなところだ。だけど、いいかい、真実というものは、心で思っているだけでは、どんなに深く思っていたって、
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