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太宰治「火の鳥」27

」青年の肩を抱きかかえるようにして、「ね、むこうへ行こう。楽屋にでも遊びに行ってみるか。」歩きながら、「ヴェルシーニン。鼻もちならん。おれは、とうとう、せりふまで覚えちゃった。」えへんと軽くせきばらいして、「――そうです。忘れられて了うでしょう。それが私たちの運命なんですから。どうにも仕方がないですよ。私たちにとって厳粛な、意味の深い、非常に大事のことのように考えられるものも、時がたつと、――忘れられて了うか、それとも重大でなくなってしまうのです。――ちえっ、まるで三木朝太郎そっくりじゃねえか。――そして、我々がこうやって忍従している現在の生活が、やがてそのうちに奇怪で、不潔で、無智で、滑稽で、事によったら、罪深いもののようにさえ思われるかも知れないのです。――いよいよ、三木だ。へどが出そうだ。」
「もし、もし。」水兵服着た女の子に小声で呼びとめられた。
「あのう、これを、高野さんから。」小さく折り畳まれた紙片である。
「なんだね。」助七は、大きい右手を差し出した。
「いいえ。」青白い顔の眼の大きいその女の子は、名女優のように屹っと威厳を示して、「あなたでは、ございません。」
「僕だ。」高須は、傍から、ひったくるようにして、受け取り、顔をしかめて開いて見た。紙ナプキンに、色鉛筆でくっきり色濃くしたためられていた。
 ――さっき、あたしの舞台に、ずいぶん高い舌打なげつけて、そうして、さっさと廊下に出て行くお姿、見ました。あなたのお態度、一ばん正しい。あなたの感じかた、一ばん正しい。あたしは、あなたのお気持、すみのすみまで判ります。あたしは、舞台で、あたしの身のほど、はっきり、知りました。まあ、あたしは、一体なんでしょう。自分がまるで、こんにゃくの化け物のように、汚くて、手がつけられなくて、泣きべそかきました。舞台で、私の着ている青い衣裳を、ずたずた千切り裂きたいほど、不安で、いたたまらない思いでございました。あたしは、ちっとも、鉄面皮じゃない。生ける屍、そんなきざな言葉でしか言い表わせませぬ。あたし、ちっとも有頂天じゃない。それを知って下さるのは、あなただけです。あたしを、やっつけないで下さい。おねがい。見ないふりしていて下さい。あたしは、精一ぱいでございます。生きてゆかなければならない。誰があたしに、そう教えたのか。チエホフ先生ではありませぬ。あなたの乙やんです。

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太宰治の歩み