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太宰治「火の鳥」28

須々木さんが、あたしにそれを教えて呉れました。けれども、あなたも教えて下さい。一こと、教えて下さい。あたし、間違っていましょうか。聞かせて下さい。あたしは、甘い水だけを求めて生きている女でしょうか。あたしを軽蔑して下さい。ああ、もう、めちゃめちゃになりました。あたしを呼んでいます。舞台に出なければなりません。十時に――
 と、書きかけて、そのままになっていた。
 高須は顔を蒼くして、少し笑い、紙片を二つに裂いた。
「見せろ。あいびきの約束かね?」
「君には、これを読む資格がない。」はっきりした語調で言って、さらに紙片を四つに裂いた。「あなたのひいきの高野幸代という役者は、なかなかの名優ですね。舞台だけでは足りなくて、廊下にまで芝居をひろげて居ります。」
「そんなこと言うもんじゃないよ。」助七は当惑気に、両手を頭のうしろに組んで、「いや味だぜ。さちよも、一生懸命に書いたんだろう? 逢ってやれよ。よろこぶぜ。」
 助七に、ぐんと背中を押され、青年は、よろめき、何かあたたかい人間の真情をその背中に感じ、そのままふらふら歩いて、一人で劇場の裏にまわっていった。生れてはじめて見る楽屋。

         ☆

 高野さちよは、そのひとつきほどまえ、三木と同棲をはじめていた。数枝いいひと、死んでも忘れない、働かなければ、あたし、死ぬる、なんにも言えない、鴎は、あれは、唖の鳥です、とやや錯乱に似た言葉を書き残して、八重田数枝のアパアトから姿を消した。淀橋の三木の家を訪れたのは、その日の夜、八時頃である。三木は不在であったが、小さく太った老母がいた。家賃三十円くらいの、まだ新しい二階建の家である。さちよが、名前を言うと、おお、と古雅に合点して、お噂、朝太郎から承って居ります、何やら、会があるとかで、ひるから出かけて居りますが、もう、そろそろ、帰りましょう、おあがりなさい、と小さい老母は、やさしく招いた。顔も、手も、つやつやして、上品な老婆であった。さちよは、張りつめていた気もゆるんで、まるで、わが家に帰ったよう、案内する老母よりさきに、階下の茶の間へさっさとはいって、あたかも、これは生きかえった金魚、ひらひら真紅のコオトを脱いで、
「おかあさまで、ございますか。はじめてお目にかかります。」とお辞儀して、どうにも甘えた気持になり、両手そろえてお辞儀しながら、

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