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太宰治「火の鳥」26
あやうく落涙しそうになって、そのとき、
「よう、」と肩を叩いたのは、助七である。「あなたは、初日を見なかったね?」
――あたし、あなたの心持が、よくわかってよ、マーシャ。さちよのオリガが、涙声でそういうのが、廊下にまで聞えて来る。
「素晴らしいね。」助七は、眼を細めて、「初日の評判、あなた新聞で読まなかったんですか? センセーション。大センセーション。天才女優の出現。ああ、笑っちゃいけません。ほんとうなんですよ。おれのとこでは、梶原剛氏に劇評たのんだのだが、どうです、あのおじいさん涙を流さんばかり、オリガの苦悩を、この女優に依ってはじめて知らされた、と、いやもう、流石のじいさん、まいってしまった。どれ、どれ、拝見。」背後のドアをそっと細めにあけ、舞台を覗いて、「何か、こう、貫禄とでも、いったようなものが在りますね。まるで、別人の感じだ。ああ、退場した。」ドアをぴたとしめて、青年の顔をちらと見て、不敵に笑い、「うまい! 落ちついていやがる。あいつは、まだまだ、大物になれる。しめたものさ。なにせ、あいつは、こわいものを知らない女ですからな。」
「あなたは、毎日、見に来ているの?」
「そうさ。」青年の無表情な質問に、助七は、むっとしたらしく、語調を変えた。「おれは、てれ隠しに、こうしてはしゃいでいるんじゃないんだぜ。君たちと違って、おれは正直だ。感情をいつわることが、できない。うれしいのだ。ほんとうに、うれしいのだ。おどり出したいくらいだ。社の用事なんか、どうにでも、ごまかせるのだから、毎日ここへやって来て、廊下の評判を聞いている次第です。軽蔑し給うな。」
「それは、あなたは、うれしいだろうな。」高須は軽く首肯し、それでもはやり無表情のままで、「だんだん、あの人も、立派になってゆくし。」
「えっへっへ。」助七は、急に相好をくずした。「知っていやがる。それを言われちゃ、一言もない。あなたは、まだ忘れていないんだね。おれが、あいつを立派な気高い女にして呉れ、って、あなたに頼んだこと、まだ、忘れていないんだね。こいつあ、まいった。いや、ありがとう、ありがとう。こののちともに、よろしくたのむぜ。」言いながら、そっとドアに耳を寄せて、「あ、いけない。ヴェルシーニンの登場だ。おれは、あのヴェルシーニンの性格は、がまんできないんだ。背筋が、寒くなる。いやな、奴だ。
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