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太宰治「火の鳥」20
寝ている数枝の顔をぴたとはさんだ。
数枝には、何もかもわかった。
「ばかなことばかりして。」そう言いながら起きあがり、小さいさちよを、ひしと抱いた。何事もなかったようにすぐ離れて、
「おかずは? やはり納豆かね。」
さちよも、いそいそ襟巻をはずして、
「あたし買って来よう。数枝は、つくだ煮だったね。海老のつくだ煮買って来てあげる。」
出て行くさちよを見送り、数枝は、ガスの栓をひねって、ごはんの鍋をのせ、ふたたび蒲団の中にもぐり込んだ。
そうして、その日から、さちよの寄棲生活がはじまった。年の瀬、お正月、これといういいこともなくするする過ぎた。みぞれの降る夜、ふたりは、電気を消して、まっくらい部屋で寝ながら話した。
「さちよの伯父さんは、でも、いいひとだと思うよ。過去のことは忘れろ、忘れろ。誰だって、みんな、深い傷を背負って、そ知らぬふりして生きているのだ。いいなあ。なかなかわかった人じゃないか。あたしは、惚れたね。」ねむそうな声でそう言って、数枝は、しずかに寝返りを打った。
「かえれっていうの?」さちよは蒲団の中で小さくちぢこまって、心細げに反問した。
「まあね。」数枝は大人びた口調で言って、「だいいち、あの、歴史的は、ばかだよ。まさしく変人だね。いや、もっとわるい。婦女|誘拐罪。咎人だよ、あれは。ろくなことを、しやしない。要らないことを、そそのかして、そうしてまたのこのこ、平気でここへ押しかけて来て、まるで恩人か何かのように、あの、きざな口のきき様ったら。どこまで、しょってるのか、判りゃしない。阿呆や。あの眼つきを、ごらんよ。どうしたって、ふつうじゃないからね。」
さちよは、くすくす笑った。
数枝も、こらえ切れず笑ってしまって、それでも、
「いやな奴さ。笑いごとじゃないよ。謂わば、女性の敵だね。」
「でも、あたし、知ってるよ。数枝は、はじめから歴史的を好きだった。」
「こいつ。」
女ふたり、腹をおさえて、笑いころげた。
「かえらぬ昔さ。」てれ隠しに数枝は、わざと下手な言葉を言って、「どうも、なんだね、あたしたち、男運がわるいようだね。」
「いいえ、」ときどきさちよは、ふっと水のように冷い語調に澄まし帰ることがある。大笑いのあとにでも、あたりの雰囲気におかまいなしに、一瞬、もう静かな口調で、ものを言い出す。へんな癖である。「あたしは、そうは思わない。
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