■無料公開作品■
太宰治「火の鳥」18
」助七は、下腹をおさえた。
三木はよろよろ立ちあがって、こんどは真正面から、助七の眉間をめがけ、ずどんと自分の頭をぶっつけてやった。大勢は、決した。助七は雪の上に、ほとんど大の字なりにひっくりかえり、しばらく、うごこうともしなかった。鼻孔からは、鼻血がどくどく流れ出し、両の眼縁がみるみる紫色に腫れあがる。
はるか遠く、楢の幹の陰に身をかくし、真赤な、ひきずるように長いコオトを着て、蛇の目傘を一本胸にしっかり抱きしめながら、この光景をこわごわ見ている女は、さちよである。
さちよは、あの翌る日に出京して、そうして別段、勉強も、学問も、しなかった。もと銀座の同じバアにつとめていて、いまは神田のダンスホオルで働いている友人がひとり在って、そのひとの四谷のアパアトに、さちよはころがりこみ、編物をしたり、洗濯をしたり、食事の手伝いをしてやったり、毎日そんなことで日を送っていた。べつに、あわてて仕事を見つけようともしなかった。流石に、ふたたびバアの女給は、気がすすまない様子であった。そのうちに、三木朝太郎は、山の宿から引きあげて来て、どこで聞きこんだものか、さちよの居所を捜し当て、にやにやしながら、どうだい、女優になってみないか、などと言うのだが、さちよは、おやおや、たいへんねえ、と笑って相手にしなかった。三木は、それでも断念せず、ときどきアパアトにふらと立ち寄っては、ストリンドベリイやチエホフの戯曲集を一冊二冊と置いていった。けさ、はやく、三木から電話で、戸山が原のことを聞き、男は、いやだねえ、とその踊子の友だちと話合い、とにかく正午に、雪解けのぬかるみを難儀しながら戸山が原にたどりついて、見ると、いましも、シャツ一枚の姿の三木朝太郎は、助七の怪力に遭って、宙に一廻転しているところであった。さちよは、ひとりで大笑いした。見ていると、まるで二匹の小さい犬ころが雪の原で上になり下になり遊びたわむれているようで、期待していた決闘の凛烈さは、少しもなかった。二人の男も、なんだか笑いながらしているようで、さちよは、へんに気抜けがした。間もなく、助七は、ひっくりかえり、のそのそ三木が、その上に馬乗りになって、助七の顔を乱打した。たちまち助七の、杜鵑に似た悲鳴が聞えた。さちよは、ひらと樹陰から躍り出て、小走りに走って三木の背後にせまり、傘を投げ捨て、ぴしゃと三木の頬をぶった。
目次
次へ
作品一覧に戻る