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太宰治「火の鳥」11

わかるかね。われわれ賤民のいうことが。」ねちねち言っているうちに、唇の色も変り、口角には白い泡がたまって、兇悪な顔にさえ見えて来た。「こんどの須々木乙彦とのことは、ゆるす。いちどだけは、ゆるす。おれは、いま、ずいぶんばかにされた立場に在る。おれにだって、それは、わかっています。はらわたが煮えくりかえるようだってのは、これは、まさしく実感だね。けれどもおれは、おれを軽蔑する女を、そんな虚傲の女を、たまらなく好きなんだ。蝶々のように美しい。因果だね。うんと虚傲になるがいい。どうです、これからも、あの女と、遊んでやって呉れませんか。それは、おれから、たのむのだ。卑屈からじゃない。おれは、もともと高尚な人間を、好きなんだ。讃美する。君は、とてもいい。素晴らしい。皮肉でも、いやみでも、なんでもない。君みたいないい人と、おとなしく遊んで居れば、だいじょうぶ、あいつは、もっと、か弱く、美しくなる。そいつは、たしかだ。」たらとよだれが、テエブルのうえに落ちて、助七あわててそれを掌で拭き消し、「あいつを、美しくして下さい。おれの、とても手のとどかないような素晴らしい女にして下さい。ね、たのむ。あいつには、あなたが、絶対に必要なんだ。おれの直感にくるいはない。畜生め。おれにだって、誇があらあ。おれは、地べたに落ちた柿なんか、食いたくねえのだ。」
 青年は陰鬱に堪えかねた。

         ☆

 さちよは、ふたたび汽車に乗った。須々木乙彦のことが新聞に出て、さちよもその情婦として写真まで掲載され、とうとう故郷の伯父が上京し、警察のものが中にはいり、さちよは伯父と一緒に帰郷しなければならなくなった。謂わば、廃残の身である。三年ぶりに見る、ふるさとの山川が、骨身に徹する思いであった。
「ねえ、伯父さん、おねがい。あたしは、これからおとなしくするんだから、おとなしくしなければならないのだから、あたしをあまり叱らないでね。まちのお友達とも、誰とも、顔を合せたくないの。あたしを、どこかへ、かくして、ね。あたし、なんぼでも、おとなしくしているから。」
 十二、三歳のむすめのように、さちよは汽車の中で、繰りかえし繰りかえし懇願した。親戚の間で、この伯父だけは、さちよを何かと不憫がっていた。伯父は、承諾したのである。故郷のまちの二つ手前の駅で、伯父とさちよは、こっそり下車した。その山間の小駅から、

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