[PR] この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。
■
無料公開作品
■
太宰治「火の鳥」12
くねくね曲った山路を馬車にゆられて、約二十分、谷間の温泉場に到着した。
「いいか。当分は、ここにいろ。おれは、もう何も言わぬ。うちの奴らには、おれから、いいように言って置く。おまえも、もう、来年は、はたちだ。ここでゆっくり湯治しながら、よくよく将来のことを考えてみるがいい。おまえは、おまえの祖先のことを思ってみたことがあるか。おれの家とは、較べものにならぬほど立派な家柄である。おまえがもし軽はずみなことでもして呉れたなら、高野の家は、それっきり断絶だ。高野の血を受け継いで生きているのは、いいか、おまえひとりだ。家系は、これは、大事にしなければいけないものだ。いまにおまえにも、いろいろあきらめが出て来て、もっと謙遜になったとき、家系というものが、どんなに生きることへの張りあいになるか、きっとわかる。高野の家を興そうじゃないか。自重しよう。これは、おれからのお願いだ。また、おまえの貴い義務でもないのか。多くは無いが、おまえが一家を創生するだけの、それくらいの財産は、おれのうちで、ちゃんと保管してあります。東京での二年間のことは、これからのおまえの生涯に、かえって薬になるかも知れぬ。過ぎ去ったことは、忘れろ。そういっても、無理かも知れぬが、しかし人間は、何か一つ触れてはならぬ深い傷を背負って、それでも、堪えて、そ知らぬふりして生きているのではないのか。おれは、そう思う。まあ、当分、静かにして居れ。苦痛を、何か刺戟で治そうとしてはならぬ。ながい日数が、かかるけれども、自然療法がいちばんいい。がまんして、しばらくは、ここに居れ。おれは、これから、うちへ帰って、みなに報告しなければいけない。悪いようには、せぬ。それは、心配ない。お金は、一銭も置いて行かぬ。買いたいものが、あるなら、宿へそう言うがいい。おれから、宿のひとに頼んで置く。」
さちよは、ひとり残された。提燈をもって、三百いくつの石の段々を、ひい、ふう、みい、と小声でかぞえながら降りていって、谷間の底の野天風呂にたどりつき、提燈を下に置いたら、すぐ傍を滔々と流れている谷川の白いうねりが見えて、古い水車がぼっと鼻のさきに浮んだ。疲れていた。ひっそり湯槽にひたっていると、苦痛も、屈辱も、焦躁も、すべて薄ぼんやり霞んでいって、白痴のようにぽかんとするのだ。なんだか、恥ずかしい身の上になっていながら、それでもばかみたいに、
目次
次へ
作品一覧に戻る
無断転載・転用禁止
太宰治の歩み