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太宰治「火の鳥」10

「いとこですが。」青年は、熱い牛乳を啜っていた。朝から、何もたべていなかった。
「どんな男です。」真剣だった。
「僕の、僕たちの、――」青年は、どもった。
「英雄ですか?」助七は、苦笑した。
「いいえ。愛人です。いのちの糧です。」
 その言葉が、助七を撃った。
「ああ、それはいい。」貧苦より身を起し、いままで十年間、こんな純粋の響の言葉を、聞いたことがなかった。「おれは、ことし二十八だよ。十七のとしから給仕をして、人を疑うことばかり覚えて来た。君たちは、いいなあ。」絶句した。
「ポオズですよ、僕たちは。」青年の左の眼は、不眠のために充血していた。「でも、ポオズの奥にも、いのちは在る。冷い気取りは、最高の愛情だ。僕は、須々木さんを見て、いつも、それを感じていました。」
「おれだって、いのちの糧を持っている。」
 低くそう言って、へんに親しげに青年の顔をしげしげ眺めた。
「存じて居ります。」
「一言もない。おれは、もともと賤民さ。たかだか一個の肉体を、肉体だけを、」言いかけてふっと口を噤み、それからぐっと上半身を乗り出させて、「あなたは、あの女を、どう思いますか?」
「気の毒な人だと思っています。」用意していたのではないかと思われるほど、涼しく答えた。
「それだけですか? いや、ここだけの話ですけれども、ね。奇妙な、何か、感じませんか?」
 青年は、顔をあからめた。
「それごらん。」助七は、下唇を突き出し、にやと笑った。「やっぱりそうだ。だけど、あなたは、まだいい。たった一日だ。おれは、かれこれ、一年になります。三百六十五日。そうだ。あなたの三百六十五倍も、おれはあの女に苦しめられて来たのです。いや、あの女には、罪はない。それは、あのひとの知らないことだ。罪は、おれの下劣な血の中に在る。笑って呉れ。おれは、あの女に勝ちたい。あの人の肉体を、完全に、欲しい。それだけなんだ。おれは、あの人に、ずいぶんひどく軽蔑されて来ました。憎悪されて来た。けれども、おれには、おれの、念願があるのだ。いまに、おれは、あの人に、おれの子供を生ませてやります。玉のような女の子を、生ませてやります。いかがです。復讐なんかじゃ、ないんだぜ。そんなけちなことは、考えていない。そいつは、おれの愛情だ。それこそ愛の最高の表現です。ああ、そのことを思うだけでも、胸が裂ける。狂うようになってしまいます。

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