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太宰治「火の鳥」1
序編には、女優高野幸代の女優に至る以前を記す。
昔の話である。須々木|乙彦は古着屋へはいって、君のところに黒の無地の羽織はないか、と言った。
「セルなら、ございます。」昭和五年の十月二十日、東京の街路樹の葉は、風に散りかけていた。
「まだセルでも、おかしくないか。」
「もっともっとお寒くなりましてからでも、黒の無地なら、おかしいことはございませぬ。」
「よし。見せて呉れ。」
「あなたさまがお召しになるので?」角帽をあみだにかぶり、袖口がぼろぼろの学生服を着ていた。
「そうだ。」差し出されたセルの羽織をその学生服の上にさっと羽織って、「短かくないか。」五尺七寸ほどの、痩せてひょろ長い大学生であった。
「セルのお羽織なら、かえって少し短かめのほうが。」
「粋か。いくらだ。」
羽織を買った。これで全部、身仕度は出来た。数時間のち、須々木乙彦は、内幸町、帝国ホテルのまえに立っていた。鼠いろのこまかい縞目の袷に、黒無地のセルの羽織を着て立っていた。ドアを押して中へはいり、
「部屋を貸して呉れないか。」
「は、お泊りで?」
「そうだ。」
浴室附のシングルベッドの部屋を二晩借りることにきめた。持ちものは、籐のステッキ一本である。部屋へ通された。はいるとすぐ、窓をあけた。裏庭である。火葬場の煙突のような大きい煙突が立っていた。曇天である。省線のガードが見える。
給仕人に背を向けて窓のそとを眺めたまま、
「コーヒーと、それから、――」言いかけて、しばらくだまっていた。くるっと給仕人のほうへ向き直り、「まあ、いい。外へ出て、たべる。」
「あ、君。」乙彦は、呼びとめて、「二晩、お世話になる。」十円紙幣を一枚とり出して、握らせた。
「は?」四十歳ちかいボーイは、すこし猫背で、気品があった。
乙彦は笑って、「お世話になる。」
「どうも。」給仕人は、その面のような端正の顔に、ちらとあいそ笑いを浮べて、お辞儀をした。
そのまま、乙彦は外へ出た。ステッキを振って日比谷のほうへ、ぶらぶら歩いた。たそがれである。うすら寒かった。はき馴れぬフェルト草履で、歩きにくいように見えた。日比谷。すきやばし。尾張町。
こんどはステッキをずるずる引きずって、銀座を歩いた。何も見なかった。ぼんやり水平線を見ているような眼差で、ぶらぶら歩いた。落葉が風にさらわれたように、よろめき、資生堂へはいった。
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