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太宰治「火の鳥」2
資生堂のなかには、もう灯がともっていて、ほの温かった。熱いコーヒーを、ゆっくりのんだ。サンドイッチを、二切たべて、よした。資生堂を出た。
日が暮れた。
こんどはステッキを肩にかついで、ぶらぶら歩いた。ふとバアへ立ち寄った。
「いらっしゃい。」
隅のソファに腰をおろした。深い溜息をついて、それから両手で顔を覆ったが、はっと気を取り直して顔をしゃんと挙げ、
「ウイスキイ。」と低く呟くように言って、すこし笑った。
「ウイスキイは、」
「なんでもいい。普通のものでいいのだ。」
六杯、続け様に、のんだ。
「おつよいのね。」
女が、両側に坐っていた。
「そうか。」
乙彦は、少し蒼くなって、そうして、なんにも言わなかった。
女たちは、手持ちぶさたの様子であった。
「かえる。いくらだ。」
「待って。」左手に坐っていた断髪の女が、乙彦の膝を軽くおさえた。「困ったわね。雨が降ってるのよ。」
「雨。」
「ええ。」
逢ったばかりの、あかの他人の男女が、一切の警戒と含羞とポオズを飛び越え、ぼんやり話を交している不思議な瞬間が、この世に、在る。
「いやねえ。あたし、この半襟かけてお店に出ると、きっと雨が降るのよ。」
ちらと見ると、浅黄色のちりめんに、銀糸の芒が、雁の列のように刺繍されてある古めかしい半襟であった。
「晴れないかな。」そろそろポオズが、よみがえって来ていた。
「ええ。お草履じゃ、たいへんでしょう。」
「よし。のもう。」
その夜は、ふたり、帝国ホテルに泊った。朝、中年の給仕人が、そっと部屋へはいって来て、ぴくっと立ちどまり、それから、おだやかに微笑した。
乙彦も、微笑して、
「バスは、」
「ご随意に。」
風呂から出て、高野さちよは、健康な、小麦色の頬をしていた。乙彦は、どこかに電話をかけた。すぐ来い、という電話であった。
やがて、ドアが勢よくあき、花のように、ぱっと部屋を明るくするような笑顔をもって背広服着た青年が、あらわれた。
「乙やん、ばかだなあ。」さちよを見て、「こんちは。」
「あれは、」
「あ。持って来ました。」黒い箱を、うちポケットから出して、「みなのむと、死にますよ。」
「眠れないので、ね。」乙彦は、醜く笑った。
「もっと、いい薬も、あるんですけど。」
「きょうは、休め。」青年は、或る大学の医学部の研究室に、つとめていた。「遊ばないか。」
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