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太宰治「愛と美について」3

名の知れぬ同人雑誌をたくさん集めて、面白いなあ、うまいなあ、と真顔で呟きながら、端から端まで、たんねんに読破している。ほんとうは、鏡花をひそかに、最も愛読していた。末弟は、十八歳である。ことし一高の、理科甲類に入学したばかりである。高等学校へはいってから、かれの態度が俄然かわった。兄たち、姉たちには、それが可笑しくてならない。けれども末弟は、大まじめである。家庭内のどんなささやかな紛争にでも、必ず末弟は、ぬっと顔を出し、たのまれもせぬのに思案深げに審判を下して、これには、母をはじめ一家中、閉口している。いきおい末弟は、一家中から敬遠の形である。末弟には、それが不満でならない。長女は、かれのぶっとふくれた不気嫌の顔を見かねて、ひとりでは大人になった気でいても、誰も大人と見ぬぞかなしき、という和歌を一首つくって末弟に与え、かれの在野遺賢の無聊をなぐさめてやった。顔が熊の子のようで、愛くるしいので、きょうだいたちが、何かとかれにかまいすぎて、それがために、かれは多少おっちょこちょいのところがある。探偵小説を好む。ときどきひとり部屋の中で、変装してみたりなどしている。語学の勉強と称して、和文対訳のドイルのものを買って来て、和文のところばかり読んでいる。きょうだい中で、母のことを心配しているのは自分だけだと、ひそかに悲壮の感に打たれている。
 父は、五年まえに死んでいる。けれども、くらしの不安はない。要するに、いい家庭だ。ときどき皆、一様におそろしく退屈することがあるので、これには閉口である。きょうは、曇天、日曜である。セルの季節で、この陰鬱の梅雨が過ぎると、夏がやって来るのである。みんな客間に集って、母は、林檎の果汁をこしらえて、五人の子供に飲ませている。末弟ひとり、特別に大きいコップで飲んでいる。
 退屈したときには、皆で、物語の連作をはじめるのが、この家のならわしである。たまには母も、そのお仲間入りすることがある。
「何か、無いかねえ。」長兄は、尊大に、あたりを見まわす。「きょうは、ちょっと、ふうがわりの主人公を出してみたいのだが。」
「老人がいいな。」次女は、卓の上に頬杖ついて、それも人さし指一本で片頬を支えているという、どうにも気障な形で、「ゆうべ私は、つくづく考えてみたのだけれど、」なに、たったいま、ふと思いついただけのことなのである。「人間のうちで、

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