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太宰治「斜陽」80

 岩が落ちて来るような勢いでそのひとの顔が近づき、遮二無二私はキスされた。性慾のにおいのするキスだった。私はそれを受けながら、涙を流した。屈辱の、くやし涙に似ているにがい涙であった。涙はいくらでも眼からあふれ出て、流れた。
 また、二人ならんで歩きながら、
「しくじった。惚れちゃった」
 とそのひとは言って、笑った。
 けれども、私は笑う事が出来なかった。眉をひそめて、口をすぼめた。
 仕方が無い。
 言葉で言いあらわすなら、そんな感じのものだった。私は自分が下駄を引きずってすさんだ歩き方をしているのに気がついた。
「しくじった」
 とその男は、また言った。
「行くところまで行くか」
「キザですわ」
「この野郎」
 上原さんは私の肩をとんとこぶしで叩いて、また大きいくしゃみをなさった。
 福井さんとかいうお方のお宅では、みなさんがもうおやすみになっていらっしゃる様子であった。
「電報、電報。福井さん、電報ですよ」
 と大声で言って、上原さんは玄関の戸をたたいた。
「上原か?」
 と家の中で男のひとの声がした。
「そのとおり。プリンスとプリンセスと一夜の宿をたのみに来たのだ。どうもこう寒いと、くしゃみばかり出て、せっかくの恋の道行もコメディになってしまう」
 玄関の戸が内からひらかれた。もうかなりの、五十歳を越したくらいの、頭の禿げた小柄なおじさんが、派手なパジャマを着て、へんな、はにかむような笑顔で私たちを迎えた。
「たのむ」
 と上原さんは一こと言って、マントも脱がずにさっさと家の中へはいって、
「アトリエは、寒くていけねえ。二階を借りるぜ。おいで」
 私の手をとって、廊下をとおり突き当りの階段をのぼって、暗いお座敷にはいり、部屋の隅のスイッチをパチとひねった。
「お料理屋のお部屋みたいね」
「うん、成金趣味さ。でも、あんなヘボ画かきにはもったいない。悪運が強くて罹災も、しやがらねえ。利用せざるべからずさ。さあ、寝よう、寝よう」
 ご自分のお家みたいに、勝手に押入れをあけてお蒲団を出して敷いて、
「ここへ寝給え。僕は帰る。あしたの朝、迎えに来ます。便所は、階段を降りて、すぐ右だ」
 だだだだと階段からころげ落ちるように騒々しく下へ降りて行って、それっきり、しんとなった。
 私はまたスイッチをひねって、電燈を消し、

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