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太宰治「斜陽」81

お父上の外国土産の生地で作ったビロードのコートを脱ぎ、帯だけほどいて着物のままでお床へはいった。疲れている上に、お酒を飲んだせいか、からだがだるく、すぐにうとうととまどろんだ。
 いつのまにか、あのひとが私の傍に寝ていらして、……私は一時間ちかく、必死の無言の抵抗をした。
 ふと可哀そうになって、放棄した。
「こうしなければ、ご安心が出来ないのでしょう?」
「まあ、そんなところだ」
「あなた、おからだを悪くしていらっしゃるんじゃない? 喀血なさったでしょう」
「どうしてわかるの? 実はこないだ、かなりひどいのをやったのだけど、誰にも知らせていないんだ」
「お母さまのお亡くなりになる前と、おんなじ匂いがするんですもの」
「死ぬ気で飲んでいるんだ。生きているのが、悲しくて仕様が無いんだよ。わびしさだの、淋しさだの、そんなゆとりのあるものでなくて、悲しいんだ。陰気くさい、嘆きの溜息が四方の壁から聞えている時、自分たちだけの幸福なんてある筈は無いじゃないか。自分の幸福も光栄も、生きているうちには決して無いとわかった時、ひとは、どんな気持になるものかね。努力。そんなものは、ただ、飢餓の野獣の餌食になるだけだ。みじめな人が多すぎるよ。キザかね」
「いいえ」
「恋だけだね。おめえの手紙のお説のとおりだよ」
「そう」
 私のその恋は、消えていた。
 夜が明けた。
 部屋が薄明るくなって、私は、傍で眠っているそのひとの寝顔をつくづく眺めた。ちかく死ぬひとのような顔をしていた。疲れはてているお顔だった。
 犠牲者の顔。貴い犠牲者。
 私のひと。私の虹。マイ、チャイルド。にくいひと。ずるいひと。
 この世にまたと無いくらいに、とても、とても美しい顔のように思われ、恋があらたによみがえって来たようで胸がときめき、そのひとの髪を撫でながら、私のほうからキスをした。
 かなしい、かなしい恋の成就。
 上原さんは、眼をつぶりながら私をお抱きになって、
「ひがんでいたのさ。僕は百姓の子だから」
 もうこのひとから離れまい。
「私、いま幸福よ。四方の壁から嘆きの声が聞えて来ても、私のいまの幸福感は、飽和点よ。くしゃみが出るくらい幸福だわ」
 上原さんは、ふふ、とお笑いになって、
「でも、もう、おそいなあ。黄昏だ」
「朝ですわ」
 弟の直治は、その朝に自殺していた。

     七

 直治の遺書。

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太宰治の歩み