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太宰治「斜陽」75
上原さんにちょっと会釈しただけで、一座に割り込む。
「上原さん、あそこのね、上原さん、あそこのね、あああ、というところですがね、あれは、どんな工合いに言ったらいいんですか? あ、あ、あ、ですか? ああ、あ、ですか?」
と乗り出してたずねているひとは、たしかに私もその舞台顔に見覚えのある新劇俳優の藤田である。
「ああ、あ、だ。ああ、あ、チドリの酒は、安くねえ、といったような塩梅だね」
と上原さん。
「お金の事ばっかり」
とお嬢さん。
「二羽の雀は一銭、とは、ありゃ高いんですか? 安いんですか?」
と若い紳士。
「一厘も残りなく償わずば、という言葉もあるし、或者には五タラント、或者には二タラント、或者には一タラントなんて、ひどくややこしい譬話もあるし、キリストも勘定はなかなかこまかいんだ」
と別の紳士。
「それに、あいつあ酒飲みだったよ。妙にバイブルには酒の譬話が多いと思っていたら、果せるかなだ、視よ、酒を好む人、と非難されたとバイブルに録されてある。酒を飲む人でなくて、酒を好む人というんだから、相当な飲み手だったに違いねえのさ。まず、一升飲みかね」
ともうひとりの紳士。
「よせ、よせ。ああ、あ、汝らは道徳におびえて、イエスをダシに使わんとす。チエちゃん、飲もう。ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ」
と上原さん、一ばん若くて美しいお嬢さんと、カチンと強くコップを打ち合せて、ぐっと飲んで、お酒が口角からしたたり落ちて、顎が濡れて、それをやけくそみたいに乱暴に掌で拭って、それから大きいくしゃみを五つも六つも続けてなさった。
私はそっと立って、お隣りの部屋へ行き、病身らしく蒼白く痩せたおかみさんに、お手洗いをたずね、また帰りにその部屋をとおると、さっきの一ばんきれいで若いチエちゃんとかいうお嬢さんが、私を待っていたような恰好で立っていて
「おなかが、おすきになりません?」
と親しそうに笑いながら、尋ねた。
「ええ、でも、私、パンを持ってまいりましたから」
「何もございませんけど」
と病身らしいおかみさんは、だるそうに横坐りに坐って長火鉢に寄りかかったままで言う。
「この部屋で、お食事をなさいまし。あんな呑んべえさんたちの相手をしていたら、一晩中なにも食べられやしません。お坐りなさい、ここへ。チエ子さんも一緒に」
「おうい、キヌちゃん、お酒が無い」
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太宰治の歩み