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太宰治「斜陽」76
とお隣りで紳士が叫ぶ。
「はい、はい」
と返辞して、そのキヌちゃんという三十歳前後の粋な縞の着物を着た女中さんが、お銚子をお盆に十本ばかり載せて、お勝手からあらわれる。
「ちょっと」
とおかみさんは呼びとめて、
「ここへも二本」
と笑いながら言い、
「それからね、キヌちゃん、すまないけど、裏のスズヤさんへ行って、うどんを二つ大いそぎでね」
私とチエちゃんは長火鉢の傍にならんで坐って、手をあぶっていた。
「お蒲団をおあてなさい。寒くなりましたね。お飲みになりませんか」
おかみさんは、ご自分のお茶のお茶碗にお銚子のお酒をついで、それから別の二つのお茶碗にもお酒を注いだ。
そうして私たち三人は黙って飲んだ。
「みなさん、お強いのね」
とおかみさんは、なぜだか、しんみりした口調で言った。
がらがらと表の戸のあく音が聞えて、
「先生、持ってまいりました」
という若い男の声がして、
「何せ、うちの社長ったら、がっちりしていますからね、二万円と言ってねばったのですが、やっと一万円」
「小切手か?」
と上原さんのしゃがれた声。
「いいえ、現なまですが。すみません」
「まあ、いいや、受取りを書こう」
ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ、の乾杯の歌が、そのあいだも一座に於いて絶える事無くつづいている。
「直さんは?」
と、おかみさんは真面目な顔をしてチエちゃんに尋ねる。私は、どきりとした。
「知らないわ。直さんの番人じゃあるまいし」
と、チエちゃんは、うろたえて、顔を可憐に赤くなさった。
「この頃、何か上原さんと、まずい事でもあったんじゃないの? いつも、必ず、一緒だったのに」
とおかみさんは、落ちついて言う。
「ダンスのほうが、すきになったんですって。ダンサアの恋人でも出来たんでしょうよ」
「直さんたら、まあ、お酒の上にまた女だから、始末が悪いね」
「先生のお仕込みですもの」
「でも、直さんのほうが、たちが悪いよ。あんなお坊ちゃんくずれは、……」
「あの」
私は微笑んで口をはさんだ。黙っていては、かえってこのお二人に失礼なことになりそうだと思ったのだ。
「私、直治の姉なんですの」
おかみさんは驚いたらしく、私の顔を見直したが、チエちゃんは平気で、
「お顔がよく似ていらっしゃいますもの。あの土間の暗いところにお立ちになっていたのを見て、私、
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