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太宰治「斜陽」65
「また長岡です。予約してありますから、ご心配無用。このご病人は、ひとの事など心配なさらず、もっとわがままに、召し上りたいものは何でも、たくさん召し上るようにしなければいけませんね。栄養をとったら、よくなります。明日また、まいります。看護婦をひとり置いて行きますから、使ってみて下さい」
と老先生は、病床のお母さまに向って大きな声で言い、それから直治に眼くばせして立ち上った。
直治ひとり、先生とお供の看護婦さんを送って行って、やがて帰って来た直治の顔を見ると、それは泣きたいのを怺えている顔だった。
私たちは、そっと病室から出て、食堂へ行った。
「だめなの? そうでしょう?」
「つまらねえ」
と直治は口をゆがめて笑って、
「衰弱が、ばかに急激にやって来たらしいんだ。今、明日も、わからねえと言っていやがった」
と言っているうちに直治の眼から涙があふれて出た。
「ほうぼうへ、電報を打たなくてもいいかしら」
私はかえって、しんと落ちついて言った。
「それは、叔父さんにも相談したが、叔父さんは、いまはそんな人集めの出来る時代では無いと言っていた。来ていただいても、こんな狭い家では、かえって失礼だし、この近くには、ろくな宿もないし、長岡の温泉にだって、二部屋も三部屋も予約は出来ない、つまり、僕たちはもう貧乏で、そんなお偉らがたを呼び寄せる力が無えってわけなんだ。叔父さんは、すぐあとで来る筈だが、でも、あいつは、昔からケチで、頼みにも何もなりゃしねえ。ゆうべだってもう、ママの病気はそっちのけで、僕にさんざんのお説教だ。ケチなやつからお説教されて、眼がさめたなんて者は、古今東西にわたって一人もあった例が無えんだ。姉と弟でも、ママとあいつとではまるで、雲泥のちがいなんだからなあ、いやになるよ」
「でも、私はとにかく、あなたは、これから叔父さまにたよらなければ、……」
「まっぴらだ。いっそ乞食になったほうがいい。姉さんこそ、これから、叔父さんによろしくおすがり申し上げるさ」
「私には、……」
涙が出た。
「私には、行くところがあるの」
「縁談? きまってるの?」
「いいえ」
「自活か? はたらく婦人。よせ、よせ」
「自活でもないの。私ね、革命家になるの」
「へえ?」
直治は、へんな顔をして私を見た。
その時、三宅先生の連れていらした附添いの看護婦さんが、私を呼びに来た。
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