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太宰治「斜陽」66

「奥さまが、何かご用のようでございます」
 いそいで病室に行って、お蒲団の傍に坐り、
「何?」
 と顔を寄せてたずねた。
 けれども、お母さまは、何か言いたげにして、黙っていらっしゃる。
「お水?」
 とたずねた。
 幽かに首を振る。お水でも無いらしかった。
 しばらくして、小さいお声で、
「夢を見たの」
 とおっしゃった。
「そう? どんな夢?」
「蛇の夢」
 私は、ぎょっとした。
「お縁側の沓脱石の上に、赤い縞のある女の蛇が、いるでしょう。見てごらん」
 私はからだの寒くなるような気持で、つと立ってお縁側に出て、ガラス戸越しに、見ると、沓脱石の上に蛇が、秋の陽を浴びて長くのびていた。私は、くらくらと目まいした。
 私はお前を知っている。お前はあの時から見ると、すこし大きくなって老けているけど、でも、私のために卵を焼かれたあの女蛇なのね。お前の復讐は、もう私よく思い知ったから、あちらへお行き。さっさと、向うへ行ってお呉れ。
 と心の中で念じて、その蛇を見つめていたが、いっかな蛇は、動こうとしなかった。私はなぜだか、看護婦さんに、その蛇を見られたくなかった。トンと強く足踏みして、
「いませんわ、お母さま。夢なんて、あてになりませんわよ」
 とわざと必要以上の大声で言って、ちらと沓脱石のほうを見ると、蛇は、やっと、からだを動かし、だらだらと石から垂れ落ちて行った。
 もうだめだ。だめなのだと、その蛇を見て、あきらめが、はじめて私の心の底に湧いて出た。お父上のお亡くなりになる時にも、枕もとに黒い小さい蛇がいたというし、またあの時に、お庭の木という木に蛇がからみついていたのを、私は見た。
 お母さまはお床の上に起き直るお元気もなくなったようで、いつもうつらうつらしていらして、もうおからだをすっかり附添いの看護婦さんにまかせて、そうして、お食事は、もうほとんど喉をとおらない様子であった。蛇を見てから、私は、悲しみの底を突き抜けた心の平安、とでも言ったらいいのかしら、そのような幸福感にも似た心のゆとりが出て来て、もうこの上は、出来るだけ、ただお母さまのお傍にいようと思った。
 そうしてその翌る日から、お母さまの枕元にぴったり寄り添って坐って編物などをした。私は、編物でもお針でも、人よりずっと早いけれども、しかし、下手だった。それで、いつもお母さまは、その下手なところを、

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