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太宰治「斜陽」64

治は黙っていた。
 私は顔を挙げて、
「もう、だめなの。あなた、気が附かなかった? あんなに腫れたら、もう、駄目なの」
 と、テーブルの端を掴んで言った。
 直治も、暗い顔になって、
「近いぞ、そりゃ。ちぇっ、つまらねえ事になりやがった」
「私、もう一度、なおしたいの。どうかして、なおしたいの」
 と右手で左手をしぼりながら言ったら、突然、直治が、めそめそと泣き出して、
「なんにも、いい事が無えじゃねえか。僕たちには、なんにもいい事が無えじゃねえか」
 と言いながら、滅茶苦茶にこぶしで眼をこすった。
 その日、直治は、和田の叔父さまにお母さまの容態を報告し、今後の事の指図を受けに上京し、私はお母さまのお傍にいない間、朝から晩まで、ほとんど泣いていた。朝霧の中を牛乳をとりに行く時も、鏡に向って髪を撫でつけながらも、口紅を塗りながらも、いつも私は泣いていた。お母さまと過した仕合せの日の、あの事この事が、絵のように浮んで来て、いくらでも泣けて仕様が無かった。夕方、暗くなってから、支那間のヴェランダへ出て、永いことすすり泣いた。秋の空に星が光っていて、足許に、よその猫がうずくまって、動かなかった。
 翌日、手の腫れは、昨日よりも、また一そうひどくなっていた。お食事は、何も召し上らなかった。お蜜柑のジュースも、口が荒れて、しみて、飲めないとおっしゃった。
「お母さま、また、直治のあのマスクを、なさったら?」
 と笑いながら言うつもりであったが、言っているうちに、つらくなって、わっと声を挙げて泣いてしまった。
「毎日いそがしくて、疲れるでしょう。看護婦さんを、やとって頂戴」
 と静かにおっしゃったが、ご自分のおからだよりも、かず子の身を心配していらっしゃる事がよくわかって、なおの事かなしく、立って、走って、お風呂場の三畳に行って、思いのたけ泣いた。
 お昼すこし過ぎ、直治が三宅さまの老先生と、それから看護婦さん二人を、お連れして来た。
 いつも冗談ばかりおっしゃる老先生も、その時は、お怒りになっていらっしゃるような素振りで、どしどし病室へはいって来られて、すぐにご診察を、おはじめになった。そうして、誰に言うともなく、
「お弱りになりましたね」
 と一こと低くおっしゃって、カンフルを注射して下さった。
「先生のお宿は?」
 とお母さまは、うわ言のようにおっしゃる。

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