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太宰治「斜陽」48

恋をなさっては、いけません。あなたは、恋をしたら、不幸になります。恋を、なさるなら、もっと、大きくなってからになさい。三十になってからになさい」
 けれども、そう言われても私は、きょとんとしていました。三十になってからの事など、その頃の私には、想像も何も出来ないことでした。
「このお別荘を、お売りになるとかいう噂を聞きましたが」
 師匠さんは、意地わるそうな表情で、ふいとそうおっしゃいました。
 私は笑いました。
「ごめんなさい。桜の園を思い出したのです。あなたが、お買いになって下さるのでしょう?」
 師匠さんは、さすがに敏感にお察しになったようで、怒ったように口をゆがめて黙しました。
 或る宮様のお住居として、新円五十万円でこの家を、どうこうという話があったのも事実ですが、それは立ち消えになり、その噂でも師匠さんは聞き込んだのでしょう。でも、桜の園のロパーヒンみたいに私どもに思われているのではたまらないと、すっかりお機嫌を悪くした様子で、あと、世間話を少ししてお帰りになってしまいました。
 私がいま、あなたに求めているものは、ロパーヒンではございません。それは、はっきり言えるんです。ただ、中年の女の押しかけを、引受けて下さい。
 私がはじめて、あなたとお逢いしたのは、もう六年くらい昔の事でした。あの時には、私はあなたという人に就いて何も知りませんでした。ただ、弟の師匠さん、それもいくぶん悪い師匠さん、そう思っていただけでした。そうして、一緒にコップでお酒を飲んで、それから、あなたは、ちょっと軽いイタズラをなさったでしょう。けれども、私は平気でした。ただ、へんに身軽になったくらいの気分でいました。あなたを、すきでもきらいでも、なんでもなかったのです。そのうちに、弟のお機嫌をとるために、あなたの著書を弟から借りて読み、面白かったり面白くなかったり、あまり熱心な読者ではなかったのですが、六年間、いつの頃からか、あなたの事が霧のように私の胸に滲み込んでいたのです。あの夜、地下室の階段で、私たちのした事も、急にいきいきとあざやかに思い出されて来て、なんだかあれは、私の運命を決定するほどの重大なことだったような気がして、あなたがしたわしくて、これが、恋かも知れぬと思ったら、とても心細くたよりなく、ひとりでめそめそ泣きました。あなたは、他の男のひとと、まるで全然ちがっています。

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