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太宰治「斜陽」22

上衣のポケットから小さい文庫本を取り出し、てれたように、板の上にほうり、
「こんなものでも、読んでいて下さい」
 文庫本には、「トロイカ」と記されていた。
 私はその文庫本を取り上げ、
「ありがとうございます。うちにも、本のすきなのがいまして、いま、南方に行っていますけど」
 と申し上げたら、聞き違いしたらしく、
「ああ、そう。あなたの御主人なのですね。南方じゃあ、たいへんだ」
 と首を振ってしんみり言い、
「とにかく、きょうはここで見張番という事にして、あなたのお弁当は、あとで自分が持って来てあげますから、ゆっくり、休んでいらっしゃい」
 と言い捨て、急ぎ足で帰って行かれた。
 私は、材木に腰かけて、文庫本を読み、半分ほど読んだ頃、あの将校が、こつこつと靴の音をさせてやって来て、
「お弁当を持って来ました。おひとりで、つまらないでしょう」
 と言って、お弁当を草原の上に置いて、また大急ぎで引返して行かれた。
 私は、お弁当をすましてから、こんどは、材木の上に這い上って、横になって本を読み、全部読み終えてから、うとうととお昼寝をはじめた。
 眼がさめたのは、午後の三時すぎだった。私は、ふとあの若い将校を、前にどこかで見かけた事があるような気がして来て、考えてみたが、思い出せなかった。材木から降りて、髪を撫でつけていたら、また、こつこつと靴の音が聞えて来て、
「やあ、きょうは御苦労さまでした。もう、お帰りになってよろしい」
 私は将校のほうに走り寄って、そうして文庫本を差し出し、お礼を言おうと思ったが、言葉が出ず、黙って将校の顔を見上げ、二人の眼が合った時、私の眼からぽろぽろ涙が出た。すると、その将校の眼にも、きらりと涙が光った。
 そのまま黙っておわかれしたが、その若い将校は、それっきりいちども、私たちの働いているところに顔を見せず、私は、あの日に、たった一日遊ぶ事が出来ただけで、それからは、やはり一日置きに立川の山で、苦しい作業をした。お母さまは、私のからだを、しきりに心配して下さったが、私はかえって丈夫になり、いまではヨイトマケ商売にもひそかに自信を持っているし、また、畑仕事にも、べつに苦痛を感じない女になった。
 戦争の事は、語るのも聞くのもいや、などと言いながら、つい自分の「貴重なる経験談」など語ってしまったが、しかし、私の戦争の追憶の中で、

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