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太宰治「斜陽」17

そのまま、警防団長の大内さんやその他の方たちと一緒にお帰りになる。
 二宮巡査だけ、お残りになって、そうして私のすぐ前まで歩み寄って来られて、呼吸だけのような低い声で、
「それではね、今夜の事は、べつに、とどけない事にしますから」
 とおっしゃった。
 二宮巡査がお帰りになったら、下の農家の中井さんが、
「二宮さんは、どう言われました?」
 と、実に心配そうな、緊張のお声でたずねる。
「とどけないって、おっしゃいました」
 と私が答えると、垣根のほうにまだ近所のお方がいらして、その私の返事を聞きとった様子で、そうか、よかった、よかった、と言いながら、ぞろぞろ引上げて行かれた。
 中井さんも、おやすみなさい、を言ってお帰りになり、あとには私ひとり、ぼんやり焼けた薪の山の傍に立ち、涙ぐんで空を見上げたら、もうそれは夜明けちかい空の気配であった。
 風呂場で、手と足と顔を洗い、お母さまに逢うのが何だかおっかなくって、お風呂場の三畳間で髪を直したりしてぐずぐずして、それからお勝手に行き、夜のまったく明けはなれるまで、お勝手の食器の用も無い整理などしていた。
 夜が明けて、お座敷のほうに、そっと足音をしのばせて行って見ると、お母さまは、もうちゃんとお着換えをすましておられて、そうして支那間のお椅子に、疲れ切ったようにして腰かけていらした。私を見て、にっこりお笑いになったが、そのお顔は、びっくりするほど蒼かった。
 私は笑わず、黙って、お母さまのお椅子のうしろに立った。
 しばらくしてお母さまが、
「なんでもない事だったのね。燃やすための薪だもの」
 とおっしゃった。
 私は急に楽しくなって、ふふんと笑った。機にかないて語る言は銀の彫刻物に金の林檎を嵌めたるが如し、という聖書の箴言を思い出し、こんな優しいお母さまを持っている自分の幸福を、つくづく神さまに感謝した。ゆうべの事は、ゆうべの事。もうくよくよすまい、と思って、私は支那間の硝子戸越しに、朝の伊豆の海を眺め、いつまでもお母さまのうしろに立っていて、おしまいにはお母さまのしずかな呼吸と私の呼吸がぴったり合ってしまった。
 朝のお食事を軽くすましてから、私は、焼けた薪の山の整理にとりかかっていると、この村でたった一軒の宿屋のおかみさんであるお咲さんが、
「どうしたのよ? どうしたのよ? いま、私、はじめて聞いて、まあ、

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