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太宰治「斜陽」18

ゆうべは、いったい、どうしたのよ?」
 と言いながら庭の枝折戸から小走りに走ってやって来られて、そうしてその眼には、涙が光っていた。
「すみません」
 と私は小声でわびた。
「すみませんも何も。それよりも、お嬢さん、警察のほうは?」
「いいんですって」
「まあよかった」
 と、しんから嬉しそうな顔をして下さった。
 私はお咲さんに、村の皆さんへどんな形で、お礼とお詫びをしたらいいか、相談した。お咲さんは、やはりお金がいいでしょう、と言い、それを持ってお詫びまわりをすべき家々を教えて下さった。
「でも、お嬢さんがおひとりで廻るのがおいやだったら、私も一緒について行ってあげますよ」
「ひとりで行ったほうが、いいのでしょう?」
「ひとりで行ける? そりゃ、ひとりで行ったほうがいいの」
「ひとりで行くわ」
 それからお咲さんは、焼跡の整理を少し手伝って下さった。
 整理がすんでから、私はお母さまからお金をいただき、百円紙幣を一枚ずつ美濃紙に包んで、それぞれの包みに、おわび、と書いた。
 まず一ばんに役場へ行った。村長の藤田さんはお留守だったので、受附の娘さんに紙包を差し出し、
「昨夜は、申しわけない事を致しました。これから、気をつけますから、どうぞおゆるし下さいまし。村長さんに、よろしく」
 とお詫びを申し上げた。
 それから、警防団長の大内さんのお家へ行き、大内さんがお玄関に出て来られて、私を見て黙って悲しそうに微笑んでいらして、私は、どうしてだか、急に泣きたくなり、
「ゆうべは、ごめんなさい」
 と言うのが、やっとで、いそいでおいとまして、道々、涙があふれて来て、顔がだめになったので、いったんお家へ帰って、洗面所で顔を洗い、お化粧をし直して、また出かけようとして玄関で靴をはいていると、お母さまが、出ていらして、
「まだ、どこかへ行くの?」
 とおっしゃる。
「ええ、これからよ」
 私は顔を挙げないで答えた。
「ご苦労さまね」
 しんみりおっしゃった。
 お母さまの愛情に力を得て、こんどは一度も泣かずに、全部をまわる事が出来た。
 区長さんのお家に行ったら、区長さんはお留守で、息子さんのお嫁さんが出ていらしたが、私を見るなりかえって向うで涙ぐんでおしまいになり、また、巡査のところでは、二宮巡査が、よかった、よかった、とおっしゃってくれるし、みんなお優しいお方たちばかりで、

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