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太宰治「ダス・ゲマイネ」6

などと私にはよく意味のわからぬようなことまでぶつぶつ呟いていたりする有様で、その日も、私が上野公園のれいの甘酒屋で、はらみ猫、葉桜、花吹雪、毛虫、そんな風物のかもし出す晩春のぬくぬくした爛熟の雰囲気をからだじゅうに感じながら、ひとりしてビイルを呑んでいたのであるが、ふと気がついてみたら、馬場がみどりいろの派手な背広服を着ていつの間にか私のうしろのほうに坐っていたのである。れいの低い声で、「きょうは八十八夜」そうひとこと呟いたかと思うともう、てれくさくてかなわんとでもいうようにむっくり立ちあがって両肩をぶるっと大きくゆすった。八十八夜を記念しようという、なんの意味もない決心を笑いながら固めて、二人、浅草へ呑みに出かけることになったのであるが、その夜、私はいっそく飛びに馬場へ離れがたない親狎の念を抱くにいたった。浅草の酒の店を五六軒。馬場はドクタア・プラアゲと日本の楽壇との喧嘩を噛んで吐きだすようにしながらながながと語り、プラアゲは偉い男さ、なぜって、とまた独りごとのようにしてその理由を呟いているうちに、私は私の女と逢いたくて、居ても立ってもいられなくなった。私は馬場を誘った。幻燈を見に行こうと囁いたのだ。馬場は幻燈を知らなかった。よし、よし。きょうだけは僕が先輩です。八十八夜だから連れていってあげましょう。私はそんなてれかくしの冗談を言いながら、プラアゲ、プラアゲ、となおも低く呟きつづけている馬場を無理、矢理、自動車に押しこんだ。急げ! ああ、いつもながらこの大川を越す瞬間のときめき。幻燈のまち。そのまちには、よく似た路地が蜘蛛の巣のように四通八達していて、路地の両側の家々の、一尺に二尺くらいの小窓小窓でわかい女の顔が花やかに笑っているのであって、このまちへ一歩踏みこむと肩の重みがすっと抜け、ひとはおのれの一切の姿勢を忘却し、逃げ了せた罪人のように美しく落ちつきはらって一夜をすごす。馬場にはこのまちが始めてのようであったが、べつだん驚きもせずゆったりした歩調で私と少しはなれて歩きながら、両側の小窓小窓の女の顔をひとつひとつ熟察していた。路地へはいり路地を抜け路地を曲り路地へ行きついてから私は立ちどまり馬場の横腹をそっと小突いて、僕はこの女のひとを好きなのです。ええ、よっぽどまえからと囁いた。私の恋の相手はまばたきもせず小さい下唇だけをきゅっと左へうごかして見せた。

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