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太宰治「メリイクリスマス」5

母の事を言い出すのは禁物の如くに見えた。ひどい嫉妬だ、と私はひとり合点した。
「よく逢えたね。」私は、すかさず話頭を転ずる。「時間をきめてあの本屋で待ち合せていたようなものだ。」
「本当にねえ。」と、こんどは私の甘い感慨に難なく誘われた。
 私は調子に乗り、
「映画を見て時間をつぶして、約束の時間のちょうど五分前にあの本屋へ行って、……」
「映画を?」
「そう、たまには見るんだ。サアカスの綱渡りの映画だったが、芸人が芸人に扮すると、うまいね。どんな下手な役者でも、芸人に扮すると、うめえ味を出しやがる。根が、芸人なのだからね。芸人の悲しさが、無意識のうちに、にじみ出るのだね。」
 恋人同士の話題は、やはり映画に限るようだ。いやにぴったりするものだ。
「あれは、あたしも、見たわ。」
「逢ったとたんに、二人のあいだに波が、ざあっと来て、またわかれわかれになるね。あそこも、うめえな。あんな事で、また永遠にわかれわかれになるということも、人生には、あるのだからね。」
 これくらい甘い事も平気で言えるようでなくっちゃ、若い女のひとの恋人にはなれない。
「僕があのもう一分まえに本屋から出て、それから、あなたがあの本屋へはいって来たら、僕たちは永遠に、いや少くとも十年間は、逢えなかったのだ。」
 私は今宵の邂逅を出来るだけロオマンチックに煽るように努めた。
 路は狭く暗く、おまけにぬかるみなどもあって、私たちは二人ならんで歩く事が出来なくなった。女が先になって、私は二重まわしのポケットに両手をつっ込んでその後に続き、
「もう半丁? 一丁?」とたずねる。
「あの、あたし、一丁ってどれくらいだか、わからないの。」
 私も実は同様、距離の測量に於いては不能者なのである。しかし、恋愛に阿呆感は禁物である。私は、科学者の如く澄まして、
「百メートルはあるか。」と言った。
「さあ。」
「メートルならば、実感があるだろう。百メートルは、半丁だ。」と教えて、何だか不安で、ひそかに暗算してみたら、百メートルは約一丁であった。しかし、私は訂正しなかった。恋愛に滑稽感は禁物である。
「でも、もうすぐ、そこですわ。」
 バラックの、ひどいアパートであった。薄暗い廊下をとおり、五つか六つ目の左側の部屋のドアに、陣場という貴族の苗字が記されてある。
「陣場さん!」と私は大声で、部屋の中に呼びかけた。

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