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太宰治「火の鳥」35

あの子、いま、一生懸命よ。つらいのよ。あたしには、それが判る。あら、あなたは、あたしをご存じない。」顔を赤くして、「ごめんなさい。あなた、高須さんね。そうでしょう? あたし、ひと目見て、はっと思ったの。ほんとうに、あたし、はじめてなのに、でも、すぐわかった。須々木乙彦の、御親戚。どう? あたし、なんでも知っているでしょう?」数枝である。芝居がはじまって、この二、三日、何かと気がもめて、きょうはホオルを休んで楽屋に来ている。

         ☆

 その夜、ああ、知っているものが見たら、ぎょっとするだろう。須々木乙彦は、生きている。生きて、ウイスキイを呑んでいる。昨年の晩秋に、須々木乙彦は、この銀座裏のバアにふらと立ち寄った。そうして、この同じソファに腰をおろし、十九のさちよと、雨の話をした。あのときと、同じ姿勢で、少しまえこごみの姿勢で、ソファに深く腰をおろし、いま、高須隆哉は、八重田数枝と、ウイスキイ呑みながら、ひそひそ話を交している。ソファの傍には、八つ手の鉢植、むかしのままに、ばさと葉をひろげて、乙彦が無心に爪で千切りとった痕まで、その葉に残っている。室内の鈍い光線も八つ手の葉に遮ぎられて、高須の顔は、三日月の光を受けたくらいに、幽かに輪廓が分明して、眼の下や、両頬に、真黒い陰影がわだかまり、げっそり痩せて、おそろしく老けて見えて、数枝も、話ながら、時おり、ちらと高須の顔を横目で見ては、それが全く別人だ、ということを知っていながら、やはり、なんだか、いやな気がした。似ているのである。数枝も、乙彦を、あの夜ここで一緒に呑んで、知っていた。乙彦は、荒んだ皮膚をして、そうして顔が、どこか畸形の感じで、決して高須のような美男ではなかった。けれども、いま、このバアの薄暗闇で、ふと見ると、やはり、似ている。数枝には、血のつながりというものが、ひどく、いやらしく、気味わるいものに思われた。
 高須には、未だ気がつかない。数枝に、無理矢理、劇場から引っぱり出され、そうして数枝の悪意ない、ちょっとした巫山戯た思いつきが、高須をここへ連れこんだ、この薄暗いバアは、乙彦と、さちよが、奇態な邂逅したところ、いま自分の腰かけているこの灰色のソファは、乙彦が追いつめられて、追いつめられて、天地にたった一つの、最後に見つけた、鳥の巣、狐の穴、一夜の憩いの椅子であったこと、高須は、

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