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太宰治「火の鳥」33
こんどは僕の家へ飛び込んで来て、自惚れちゃだめよ、仕事の相談に来たの、なんて、いつもの僕なら、君はいまごろ横っつらの二つや三つぶん殴られている。」三木は流石に、蒼くなっていた。
さちよは、ぼんやり顔をあげて、
「殴らないの?」
「寝て起きて来たようなこと言うなよ。」苦笑して、煙草のけむりを、ゆっくり吐いた。「かえり給え。僕は、言いたいだけのことは、言ったんだ。あとは、もっぱら敬遠主義だ。君も少しは考えるがいい。かえれ。路頭に迷ったって、僕の知ったことじゃない。」
もじもじして、
「路頭は、寒くて、いや。」
三木は、あやうく噴き出しそうになり、
「笑わせようたって、だめさ。」言いながら、はっきり負けたのを意識した。
「さちよ、ここにいるか。」
「いる。」
「女優になるか。」
「なる。」
「勉強するか。」
「する。」
三木の腕の中で、さちよは、小声で答えていた。
「ばかなやつ。」三木は、さちよのからだから離れて、「おふくろと、どんな話をしていた?」いつもの、やさしい歴史的さんに、かえっていた。
「あたし、お母さん好きよ。」さちよは、髪を掻きあげて、「これから、うんと孝行するの。」
そうして、三木との同棲がはじまった。三木は劇壇に、奇妙な勢力を持っていた。背後に、元老の鶴屋北水の頑強な支持もあって、その特異な作風が、劇壇の人たちに敬遠にちかいほどの畏怖の情を以て見られていた。さちよの職場は、すぐにきまった。鴎座である。そのころの鴎座は、素晴しかった。日本の知識人は、一様に、鴎座の努力を尊敬していた。一座の指導者は、尾沼栄蔵、由緒正しき貴族である。俳優も、一流の名優が競って参加し、外国の古典やら、また、日本の無名作家の戯曲をも、大胆に採用して、毎月一回一週間ずつの公演を行い、日本の文化を、たしかに高めた。元老、鶴屋北水の推薦と、三木朝太郎の奔走のおかげで、さちよは、いきなり大役をふられた。すなわち、三人姉妹の長女、オリガである。いいかい、オリガは、センチメントおさえて、おさえて、おさえ切れなくなる迄おさえて、幕切れで、どっとせきあげる、それだけ心掛けて居ればいいのだ、あとは尾沼君の言うこと信仰し給え、あれは偉い男だ。それから、ほかの役者の邪魔をしないように、ね。三木は、それだけ言って、あとは、何も教えなかった。三木には、また、三木の仕事があるのである。
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