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太宰治「火の鳥」15

「さあさ、あなたは、お仕事。」
「よし給え。それも女の擬態かね?」歴史的は、流石に聡明な笑顔であった。「この部屋へ来る足音じゃないよ。まあ、いいからそんな見っともない真似はよしなさい。ゆっくり話そうじゃないか。」自分でも、きちんと坐り直してそう言った。痩せて小柄な男であったが、鉄縁の眼鏡の底の大きい眼や、高い鼻は、典雅な陰影を顔に与えて、教養人らしい気品は、在った。
「あなた、お金ある?」押入れのまえに、ぼんやり立ったままで、さちよは、そんなことを呟いた。
「あたし、もう、いやになった。あなたを相手に、こんなところで話をしていると、死ぬるくらいに東京が恋しい。あなたが悪いのよ。あたしの愛情が、どうのこうのと、きざに、あたしをいじくり廻すものだから、あたし、いいあんばいに忘れていた。あたしの不幸、あたしの汚なさ、あたしの無力、みんな一時に思い出しちゃった。東京は、いいわね。あたしより、もっと不幸な人が、もっと恥ずかしい人が、お互い説教しないで、笑いながら生きているのだもの。あたし、まだ、十九よ。あきらめ切ったエゴの中で、とても、冷く生きて居れない。」
「脱走する気だね。」
「でも、あたし、お金がないの。」
 三木は、ちらと卑しく笑い、そのまま頭をたれて考えた。ずいぶん大袈裟な永い思案の素振りであった。ふと顔をあげて、
「十円あげよう。」ほとんど怒っているような口調で、「君は、ばかだ。僕は、ずいぶん、あなたを高く愛して来た。あなたは、それを知らない。僕には、あなたの、ちょっとした足音にもびくついて、こそこそ押入れに隠れるような、そんなあさましい恰好を、とても、だまって見て居れない。いまのあなたにお金をあげたら、僕は、ものの見事に背徳漢かも知れない。けれども、これは僕の純粋衝動だ。僕は、それに従う。僕には、この結果が、どうなるものか、わからない。それは、神だけが知っている。生きるものに権利あり。君の自由にするがいい。罪は、われらに無い。」
「ありがとう。」くすと笑って、「あなたは、ずいぶん嘘つきね。それこそ、歴史的よ。ごめんなさい。じゃ、また、あとで、ね。」
 三木朝太郎は、くるしく笑った。

         ☆

 東京では、昭和六年の元旦に、雪が降った。未明より、ちらちら降りはじめ、昼ごろまでつづいた。ひる少しすぎ、戸山が原の雑木の林の陰に、外套の襟を立て、無帽で、

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