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太宰治「渡り鳥」5
それはいけません。よそのひとのお金をあずかると、どうも、責任を感じて僕はうまく酔えません。」
面のぶざいくなのに似合わず、なかなか話せる男じゃないか。やはり小説を書くほどの男には、どこか、あっさりしたところがある。イナセだよ。モオツアルトを聞けば、モオツアルト。文学青年と逢えば、文学青年。自然にそうなって来るんだから不思議だ。
「それじゃあ、今夜は、大いに文学でも談じてみますか。僕は、あなたの作品には前から好意を感じていたのですがね、どうも、編輯長がねえ、保守的でねえ。」
竹田屋に連れて行こう。あそこに、僕の勘定がまだ千円くらいあった筈だから、ついでに払ってもらいましょう。
「ここですか?」
「ええ、きたないところですがね、僕はこんなところで飲むのが好きなんです。あなたは、どうです。」
「わるくないですね。」
「はあ、趣味が合いました。飲みましょう。乾杯。趣味というものは、むずかしいものでしてね。千の嫌悪から一つの趣味が生れるんです。趣味の無いやつには、だから嫌悪も無いんです。飲みましょう、乾杯。大いに今夜は談じ合おうじゃありませんか。あなたは案外、無口なお方のようですね。沈黙はいけません。あれには負けます。あれは僕らの最大の敵ですね。こんなおしゃべりをするという事は、これは非常な自己犠牲で、ほとんど人間の、最高の奉仕の一つでしょう。しかも少しも報酬をあてにしていない奉仕でしょう。しかし、また、敵を愛すべし。僕は、僕を活気づける者を愛さずにはおられない。僕らの敵手は、いつも僕らを活気づけてくれますからね。飲みましょう。馬鹿者はね、ふざける事は真面目でないと信じているんです。また、洒落は返答でないと思ってるらしい。そうして、いやに卒直なんて態度を要求する。しかし、卒直なんてものはね、他人にさながら神経のないもののように振舞う事です。他人の神経をみとめない。だからですね、余りに感受性の強い人間は、他人の苦痛がわかるので、容易に卒直になれない。卒直なんてのは、これは、暴力ですよ。だから僕は、老大家たちが好きになれないんだ。ただ、あいつらの腕力が、こわいだけだ。(狼が羊を食うのはいけない。あれは不道徳だ。じつに不愉快だ。おれがその羊を食うべきものなのだから。)なんて乱暴な事を平然と言い出しそうな感じの人たちばかりだ。どだい、勘がいいなんて、あてになるものじゃない。
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