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太宰治「渡り鳥」3

どうも女の社会主義者は、虚栄心が強くて困る。
「講演ですか?」
 見ろ、顔もあからめない。
「いいえ、組合の、……」
 組合? 紋切型辞典に曰く、それは右往左往して疲れて、泣く事である。多忙のシノニム。
 僕も、ちょっぴり泣いた事がある。
「毎日、たいへんですね。」
「ええ、疲れますわ。」
 こう来なくちゃ嘘だ。
「でも、いまは民主革命の絶好のチャンスですからね。」
「ええ、そう。チャンスです。」
「いまをはずしたら、もう、永遠に、……」
「いいえ、でも、わたくしたちは絶望しませんわ。」
 またもお世辞の失敗か。むずかしいものだ。
「お茶でも飲みましょう。」
 たかってやれ。
「ええ、でも、わたくし、今夜は失礼しますわ。」
 ちゃっかりしていやがる。でも、こんな女房を持ったら、亭主は楽だろう。やりくりが上手にちがい無い。まだ、みずみずしさも、残っている。
 四十女を見れば、四十女。三十女を見れば、三十女。十六七を見れば、十六七。ベートーヴェン。モオツアルト。山名先生。マルクス。デカルト。宮さま。田辺女史。しかし、もう、僕の周囲には誰もいない。風だけ。
 何か食おうかなあ。胃の具合いが、どうも、……音楽会は胃に悪いものかも知れない。げっぷを怺えたのが、いけなかった。
「おい、柳川君!」
 ああ、いい名じゃない。川柳のさかさまだ。柳川鍋。いけない、あすからペンネームを変えよう。ところで、こいつは誰だったっけ。物凄いぶおとこだなあ。思い出した。うちの社へ、原稿を持ち込んで来た文学青年だ。つまらん奴と逢ったなあ。酔っていやがる。僕にたかる気かも知れない。よそよそしくしてやろう。
「ええっと、どなたでしたっけ。失礼ですが。」
 ことに依ると、たかられるかも知れない。
「いつか、クレヨン社に原稿を持ち込んで、あなたに荷風の猿真似だと言われて引下った男ですよ。お忘れですか?」
 脅迫するんじゃねえだろうな。僕は、猿真似とは言わなかった筈だが。エピゴーネン、いや、イミテーションと言ったかしら。とにかく僕は、あの原稿は一枚も読んでいなかった。題が、いけなかったんだよ、ええっと、何だったっけな、「或る踊子の問わず語り」こっちが狼狽して赤面したね。馬鹿な奴もあったものだ。
「思い出しました。」
 いんぎん鄭重に取り扱うに限る。何せ、相手は馬鹿なんだからな。殴られちゃ、つまらない。でも、

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太宰治の歩み