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太宰治「花吹雪」12

友は中庭の美事なる薔薇数輪を手折りて、手土産に与えんとするを、この主人の固辞して曰く、野菜ならばもらってもよい。以て全豹を推すべし。かの剣聖が武具の他の一切の道具をしりぞけし一すじの精進の心と似て非なること明白なり。なおまた、この男には当分武具は禁物なり。気違いに刃物の譬えもあるなり。何をするかわかったものに非ず。弱き犬はよく人を噛むものなり。
十六、死は敢えて厭うところのものに非ず。生き残った妻子は、ふびんなれども致し方なし。然れども今は、戦死の他の死はゆるされぬ。故に怺えて生きて居るなり。この命、今はなんとかしてお国の役に立ちたし。この一箇条、敢えて剣聖にゆずらじと思うものの、また考えてみると、死にたくない命をも捨てなければならぬところに尊さがあるので、なんでもかんでも死にたくて、うろうろ死場所を捜し廻っているのは自分勝手のわがままで、ああ、この一箇条もやっぱり駄目なり。
十七、老後の財宝所領に心掛けるどころか、目前の日々の暮しに肝胆を砕いている有様で苦笑の他は無いが、けれども、老後あるいは私の死後、家族の困らぬ程度の財産は、あったほうがよいとひそかに思っている。けれども、財産を遺すなどは私にとって奇蹟に近い。財産は無くとも、仕事が残っておれば、なんとかなるんじゃないかしら、などと甘い、あどけない空想をしているんだから之も落第。
十八、苦しい時の神だのみさ。もっとも一生くるしいかも知れないのだから、一生、神仏を忘れないとしても、それだって神仏を頼むほうだ。剣聖の心境に背馳すること千万なり。
十九、恥ずかしながらわが敵は、廚房に在り。之をだまして、怒らせず、以てわが働きの貧しさをごまかそうとするのが、私の兵法の全部である。之と争って、時われに利あらず、旗を巻いて家を飛び出し、近くの井の頭公園の池畔をひとり逍遥している時の気持の暗さは類が無い。全世界の苦悩をひとりで背負っているみたいに深刻な顔をして歩いて、しきりに夫婦喧嘩の後始末に就いて工夫をこらしているのだから話にならない。よろず、ただ呆れたるより他のことは無しである。

 剣聖の書遺した「独行道」と一条ずつ引較べて読んでみて下さい。不真面目な酔いどれ調にも似ているが、真理は、笑いながら語っても真理だ。この愚者のいつわらざる告白も、賢明なる読者諸君に対して、いささかでも反省の資料になってくれたら幸甚である。

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