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太宰治「愛と美について」10

小さい犬を一匹だいている。
 ふたりは、こんな話をした。
 ――御幸福?
 ――ああ、仕合せだ。おまえがいなくなってから、すべてが、よろしく、すべてが、つまり、おのぞみどおりだ。
 ――ちぇっ、若いのをおもらいになったんでしょう?
 ――わるいかね。
 ――ええ、わるいわ。あたしが犬の道楽さえ、よしたら、いつでも、また、あなたのところへ帰っていいって、そうちゃんと約束があったじゃないの。
 ――よしてやしないじゃないか。なんだ、こんどの犬は、またひどいじゃないか。これは、ひどいね。蛹でも食って生きているような感じだ。妖怪じみている。ああ、胸がわるい。
 ――そんなにわざわざ蒼い顔して見せなくたっていいのよ。ねえ、プロや。おまえの悪口言ってるのよ。吠えて、おやり。わん、と言って吠えておやり。
 ――よせ、よせ。おまえは、相変らず厭味な女だ。おまえと話をしていると、私は、いつでも脊筋が寒い。プロ。なにがプロだ。も少し気のきいた名前を、つけんかね。無智だ。たまらん。
 ――いいじゃないの。プロフェッサアのプロよ。あなたを、おしたい申しているのよ。いじらしいじゃないの。
 ――たまらん。
 ――おや、おや。やっぱり、お汗が多いのねえ。あら、お袖なんかで拭いちゃ、みっともないわよ。ハンケチないの? こんどの奥さん、気がきかないのね。夏の外出には、ハンケチ三枚と、扇子、あたしは、いちどだってそれを忘れたことがない。
 ――神聖な家庭に、けちをつけちゃ困るね。不愉快だ。
 ――おそれいります。ほら、ハンケチ、あげるわよ。
 ――ありがとう。借りて置きます。
 ――すっかり、他人におなりなすったのねえ。
 ――別れたら、他人だ。このハンケチ、やっぱり昔のままの、いや、犬のにおいがするね。
 ――まけおしみ言わなくっていいの。思い出すでしょう? どう?
 ――くだらんことを言うな。たしなみの無い女だ。
 ――あら、どっちが? やっぱり、こんどの奥さんにも、あんなに子供みたいに甘えかかっていらっしゃるの? およしなさいよ、いいとしをして、みっともない。きらわれますよ。朝、寝たまま足袋をはかせてもらったりして。
 ――神聖な家庭に、けちをつけちゃ、こまるね。私は、いま、仕合せなんだからね。すべてが、うまくいっている。
 ――そうして、やっぱり、

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