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太宰治「斜陽」9

明日、とにかく銀座の私の事務所までおいでを乞う、という文面で、
「お母さま、おいでなさる?」
 と私がたずねると、
「だって、お願いしていたのだもの」
 と、とてもたまらなく淋しそうに笑っておっしゃった。
 翌る日、もとの運転手の松山さんにお伴をたのんで、お母さまは、お昼すこし過ぎにおでかけになり、夜の八時頃、松山さんに送られてお帰りになった。
「きめましたよ」
 かず子のお部屋へはいって来て、かず子の机に手をついてそのまま崩れるようにお坐りになり、そう一言おっしゃった。
「きめたって、何を?」
「全部」
「だって」
 と私はおどろき、
「どんなお家だか、見もしないうちに、……」
 お母さまは机の上に片肘を立て、額に軽くお手を当て、小さい溜息をおつきになり、
「和田の叔父さまが、いい所だとおっしゃるのだもの。私は、このまま、眼をつぶってそのお家へ移って行っても、いいような気がする」
 とおっしゃってお顔を挙げて、かすかにお笑いになった。そのお顔は、少しやつれて、美しかった。
「そうね」
 と私も、お母さまの和田の叔父さまに対する信頼心の美しさに負けて、合槌を打ち、
「それでは、かず子も眼をつぶるわ」
 二人で声を立てて笑ったけれども、笑ったあとが、すごく淋しくなった。
 それから毎日、お家へ人夫が来て、引越しの荷ごしらえがはじまった。和田の叔父さまも、やって来られて、売り払うものは売り払うようにそれぞれ手配をして下さった。私は女中のお君と二人で、衣類の整理をしたり、がらくたを庭先で燃やしたりしていそがしい思いをしていたが、お母さまは、少しも整理のお手伝いも、お指図もなさらず、毎日お部屋で、なんとなく、ぐずぐずしていらっしゃるのである。
「どうなさったの? 伊豆へ行きたくなくなったの?」
 と思い切って、少しきつくお訊ねしても、
「いいえ」
 とぼんやりしたお顔でお答えになるだけであった。
 十日ばかりして、整理が出来上った。私は、夕方お君と二人で、紙くずや藁を庭先で燃やしていると、お母さまも、お部屋から出ていらして、縁側にお立ちになって黙って私たちの焚火を見ていらした。灰色みたいな寒い西風が吹いて、煙が低く地を這っていて、私は、ふとお母さまの顔を見上げ、お母さまのお顔色が、いままで見たこともなかったくらいに悪いのにびっくりして、
「お母さま! お顔色がお悪いわ」

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