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太宰治「斜陽」78
ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ。
「泊るところが、ねえんだろ」
と、上原さんは、低い声でひとりごとのようにおっしゃった。
「私?」
私は自身に鎌首をもたげた蛇を意識した。敵意。それにちかい感情で、私は自分のからだを固くしたのである。
「ざこ寝が出来るか。寒いぜ」
上原さんは、私の怒りに頓着なく呟く。
「無理でしょう」
とおかみさんは、口をはさみ、
「お可哀そうよ」
ちぇっ、と上原さんは舌打ちして、
「そんなら、こんなところへ来なけれあいいんだ」
私は黙っていた。このひとは、たしかに、私のあの手紙を読んだ。そうして、誰よりも私を愛している、と、私はそのひとの言葉の雰囲気から素早く察した。
「仕様がねえな。福井さんのとこへでも、たのんでみようかな。チエちゃん、連れて行ってくれないか。いや、女だけだと、途中が危険か。やっかいだな。かあさん、このひとのはきものを、こっそりお勝手のほうに廻して置いてくれ。僕が送りとどけて来るから」
外は深夜の気配だった。風はいくぶんおさまり、空にいっぱい星が光っていた。私たちは、ならんで歩きながら、
「私、ざこ寝でも何でも、出来ますのに」
上原さんは、眠そうな声で、
「うん」
とだけ言った。
「二人っきりに、なりたかったのでしょう。そうでしょう」
私がそう言って笑ったら、上原さんは、
「これだから、いやさ」
と口をまげて、にが笑いなさった。私は自分がとても可愛がられている事を、身にしみて意識した。
「ずいぶん、お酒を召し上りますのね。毎晩ですの?」
「そう、毎日。朝からだ」
「おいしいの? お酒が」
「まずいよ」
そう言う上原さんの声に、私はなぜだか、ぞっとした。
「お仕事は?」
「駄目です。何を書いても、ばかばかしくって、そうして、ただもう、悲しくって仕様が無いんだ。いのちの黄昏。人類の黄昏。芸術の黄昏。それも、キザだね」
「ユトリロ」
私は、ほとんど無意識にそれを言った。
「ああ、ユトリロ。まだ生きていやがるらしいね。アルコールの亡者。死骸だね。最近十年間のあいつの絵は、へんに俗っぽくて、みな駄目」
「ユトリロだけじゃないんでしょう? 他のマイスターたちも全部、……」
「そう、衰弱。しかし、新しい芽も、芽のままで衰弱しているのです。霜。フロスト。世界中に時ならぬ霜が降りたみたいなのです」
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