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太宰治「斜陽」73
わびしさが猛然と身のまわりに押し寄せて来る気配に堪えかね、お座敷に駈け上って、まっくら闇の中で奥さまのお手を掴んで泣こうかしらと、ぐらぐら烈しく動揺したけれども、ふと、その後の自分のしらじらしい何とも形のつかぬ味気無い姿を考え、いやになり、
「ありがとうございました」
と、ばか叮嚀なお辞儀をして、外へ出て、こがらしに吹かれ、戦闘、開始、恋する、すき、こがれる、本当に恋する、本当にすき、本当にこがれる、恋いしいのだから仕様が無い、すきなのだから仕様が無い、こがれているのだから仕様が無い、あの奥さまはたしかに珍らしくいいお方、あのお嬢さんもお綺麗だ、けれども私は、神の審判の台に立たされたって、少しも自分をやましいとは思わぬ、人間は、恋と革命のために生れて来たのだ、神も罰し給う筈が無い、私はみじんも悪くない、本当にすきなのだから大威張り、あのひとに一目お逢いするまで、二晩でも三晩でも野宿しても、必ず。
駅前の白石というおでんやは、すぐに見つかった。けれども、あのひとはいらっしゃらない。
「阿佐ヶ谷ですよ、きっと。阿佐ヶ谷駅の北口をまっすぐにいらして、そうですね、一丁半かな? 金物屋さんがありますからね、そこから右へはいって、半丁かな? 柳やという小料理屋がありますからね、先生、このごろは柳やのおステさんと大あつあつで、いりびたりだ、かなわねえ」
駅へ行き、切符を買い、東京行きの省線に乗り、阿佐ヶ谷で降りて、北口、約一丁半、金物屋さんのところから右へ曲って半丁、柳やは、ひっそりしていた。
「たったいまお帰りになりましたが、大勢さんで、これから西荻のチドリのおばさんのところへ行って夜明しで飲むんだ、とかおっしゃっていましたよ」
私よりも年が若くて、落ちついて、上品で、親切そうな、これがあの、おステさんとかいうあのひとと大あつあつの人なのかしら。
「チドリ? 西荻のどのへん?」
心細くて、涙が出そうになった。自分がいま、気が狂っているのではないかしら、とふと思った。
「よく存じませんのですけどね、何でも西荻の駅を降りて、南口の、左にはいったところだとか、とにかく、交番でお聞きになったら、わかるんじゃないでしょうか。何せ、一軒ではおさまらないひとで、チドリに行く前にまたどこかにひっかかっているかも知れませんですよ」
「チドリへ行ってみます。さようなら」
また、
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