無料公開作品


太宰治「斜陽」62

何を言っても仕方が無い」
 そう言って、私から離れて行ったお友達。あのお友達に、あの時、私はレニンの本を読まないで返したのだ。
「読んだ?」
「ごめんね。読まなかったの」
 ニコライ堂の見える橋の上だった。
「なぜ? どうして?」
 そのお友達は、私よりさらに一寸くらい背が高くて、語学がとてもよく出来て、赤いベレー帽がよく似合って、お顔もジョコンダみたいだという評判の、美しいひとだった。
「表紙の色が、いやだったの」
「へんなひと。そうじゃないんでしょう? 本当は、私をこわくなったのでしょう?」
「こわかないわ。私、表紙の色が、たまらなかったの」
「そう」
 と淋しそうに言い、それから、私を更級日記だと言い、そうして、何を言っても仕方がない、ときめてしまった。
 私たちは、しばらく黙って、冬の川を見下していた。
「ご無事で。もし、これが永遠の別れなら、永遠に、ご無事で。バイロン」
 と言い、それから、そのバイロンの詩句を原文で口早に誦して、私のからだを軽く抱いた。
 私は恥ずかしく、
「ごめんなさいね」
 と小声でわびて、お茶の水駅のほうに歩いて、振り向いてみると、そのお友達は、やはり橋の上に立ったまま、動かないで、じっと私を見つめていた。
 それっきり、そのお友達と逢わない。同じ外人教師の家へかよっていたのだけれども、学校がちがっていたのである。
 あれから十二年たったけれども、私はやっぱり更級日記から一歩も進んでいなかった。いったいまあ、私はそのあいだ、何をしていたのだろう。革命を、あこがれた事も無かったし、恋さえ、知らなかった。いままで世間のおとなたちは、この革命と恋の二つを、最も愚かしく、いまわしいものとして私たちに教え、戦争の前も、戦争中も、私たちはそのとおりに思い込んでいたのだが、敗戦後、私たちは世間のおとなを信頼しなくなって、何でもあのひとたちの言う事の反対のほうに本当の生きる道があるような気がして来て、革命も恋も、実はこの世で最もよくて、おいしい事で、あまりいい事だから、おとなのひとたちは意地わるく私たちに青い葡萄だと嘘ついて教えていたのに違いないと思うようになったのだ。私は確信したい。人間は恋と革命のために生れて来たのだ。
 すっと襖があいて、お母さまが笑いながら顔をお出しになって、
「まだ起きていらっしゃる。眠くないの?」
 とおっしゃった。

目次 次へ

作品一覧に戻る

無断転載・転用禁止
太宰治の歩み