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太宰治「斜陽」60
お母さまは、もういらっしゃらなかったのだ。お母さまのお葬いも、とっくに済ましていたのじゃないか。ああ、お母さまは、もうお亡くなりになったのだと意識したら、言い知れぬ凄しさに身震いして、眼がさめた。
ヴェランダは、すでに黄昏だった。雨が降っていた。みどり色のさびしさは、夢のまま、あたり一面にただよっていた。
「お母さま」
と私は呼んだ。
静かなお声で、
「何してるの?」
というご返事があった。
私はうれしさに飛び上って、お座敷へ行き、
「いまね、私、眠っていたのよ」
「そう。何をしているのかしら、と思っていたの。永いおひる寝ね」
と面白そうにお笑いになった。
私はお母さまのこうして優雅に息づいて生きていらっしゃる事が、あまりうれしくて、ありがたくて、涙ぐんでしまった。
「御夕飯のお献立は? ご希望がございます?」
私は、少しはしゃいだ口調でそう言った。
「いいの。なんにも要らない。きょうは、九度五分にあがったの」
にわかに私は、ぺしゃんこにしょげた。そうして、途方にくれて薄暗い部屋の中をぼんやり見廻し、ふと、死にたくなった。
「どうしたんでしょう。九度五分なんて」
「なんでもないの。ただ、熱の出る前が、いやなのよ。頭がちょっと痛くなって、寒気がして、それから熱が出るの」
外は、もう、暗くなっていて、雨はやんだようだが、風が吹き出していた。灯をつけて、食堂へ行こうとすると、お母さまが、
「まぶしいから、つけないで」
とおっしゃった。
「暗いところで、じっと寝ていらっしゃるの、おいやでしょう」
と立ったまま、おたずねすると、
「眼をつぶって寝ているのだから、同じことよ。ちっとも、さびしくない。かえって、まぶしいのが、いやなの。これから、ずっと、お座敷の灯はつけないでね」
とおっしゃった。
私には、それもまた不吉な感じで、黙ってお座敷の灯を消して、隣りの間へ行き、隣りの間のスタンドに灯をつけ、たまらなく侘びしくなって、いそいで食堂へ行き、罐詰の鮭を冷たいごはんにのせて食べたら、ぽろぽろと涙が出た。
風は夜になっていよいよ強く吹き、九時頃から雨もまじり、本当の嵐になった。二、三日前に巻き上げた縁先の簾が、ばたんばたんと音をたてて、私はお座敷の隣りの間で、ローザルクセンブルグの「経済学入門」を奇妙な興奮を覚えながら読んでいた。これは私が、
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