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太宰治「斜陽」46

自動車でその師匠さんのお家の前を通り過ぎた時、そのお方がおひとりでぼんやりお宅の門の傍に立っていらして、お母さまが自動車の窓からちょっと師匠さんにお会釈なさったら、その師匠さんの気むずかしそうな蒼黒いお顔が、ぱっと紅葉よりも赤くなりました。
「こいかしら」
 私は、はしゃいで言いました。
「お母さまを、すきなのね」
 けれども、お母さまは落ちついて、
「いいえ、偉いお方」
 とひとりごとのように、おっしゃいました。芸術家を尊敬するのは、私どもの家の家風のようでございます。
 その師匠さんが、先年奥さまをなくなさったとかで、和田の叔父さまと謡曲のお天狗仲間の或る宮家のお方を介し、お母さまに申し入れをなさって、お母さまは、かず子から思ったとおりの御返事を師匠さんに直接さしあげたら? とおっしゃるし、私は深く考えるまでもなく、いやなので、私にはいま結婚の意志がございません、という事を何でもなくスラスラと書けました。
「お断りしてもいいのでしょう?」
「そりゃもう。……私も、無理な話だと思っていたわ」
 その頃、師匠さんは軽井沢の別荘のほうにいらしたので、そのお別荘へお断りの御返事をさし上げたら、それから、二日目に、その手紙と行きちがいに、師匠さんご自身、伊豆の温泉へ仕事に来た途中でちょっと立ち寄らせていただきましたとおっしゃって、私の返事の事は何もご存じでなく、出し抜けに、この山荘にお見えになったのです。芸術家というものは、おいくつになっても、こんな子供みたいな気ままな事をなさるものらしいのね。
 お母さまは、お加減がわるいので、私が御相手に出て、支那間でお茶を差し上げ、
「あの、お断りの手紙、いまごろ軽井沢のほうに着いている事と存じます。私、よく考えましたのですけど」
 と申し上げました。
「そうですか」
 とせかせかした調子でおっしゃって、汗をお拭きになり、
「でも、それは、もう一度、よくお考えになってみて下さい。私は、あなたを、何と言ったらいいか、謂わば精神的には幸福を与える事が出来ないかも知れないが、その代り、物質的にはどんなにでも幸福にしてあげる事が出来る。これだけは、はっきり言えます。まあ、ざっくばらんの話ですが」
「お言葉の、その、幸福というのが、私にはよくわかりません。生意気を申し上げるようですけど、ごめんなさい。チェホフの妻への手紙に、

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