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太宰治「斜陽」32

小さい家の中をあちこちと見て廻り、私がその後をついて歩いて、
「どう? お母さまは、変った?」
「変った、変った。やつれてしまった。早く死にゃいいんだ。こんな世の中に、ママなんて、とても生きて行けやしねえんだ。あまりみじめで、見ちゃおれねえ」
「私は?」
「げびて来た。男が二三人もあるような顔をしていやがる。酒は? 今夜は飲むぜ」
 私はこの部落でたった一軒の宿屋へ行って、おかみさんのお咲さんに、弟が帰還したから、お酒を少しわけて下さい、とたのんでみたけれども、お咲さんは、お酒はあいにく、いま切らしています、というので、帰って直治にそう伝えたら、直治は、見た事も無い他人のような表情の顔になって、ちえっ、交渉が下手だからそうなんだ、と言い、私から宿屋の在る場所を聞いて、庭下駄をつっかけて外に飛び出し、それっきり、いくら待っても家へ帰って来なかった。私は直治の好きだった焼き林檎と、それから、卵のお料理などこしらえて、食堂の電球も明るいのと取りかえ、ずいぶん待って、そのうちに、お咲さんが、お勝手口からひょいと顔を出し、
「もし、もし。大丈夫でしょうか。焼酎を召し上っているのですけど」
 と、れいの鯉の眼のようなまんまるい眼を、さらに強く見はって、一大事のように、低い声で言うのである。
「焼酎って。あの、メチル?」
「いいえ、メチルじゃありませんけど」
「飲んでも、病気にならないのでしょう?」
「ええ、でも、……」
「飲ませてやって下さい」
 お咲さんは、つばきを飲み込むようにしてうなずいて帰って行った。
 私はお母さまのところに行って、
「お咲さんのところで、飲んでいるんですって」
 と申し上げたら、お母さまは、少しお口を曲げてお笑いになって、
「そう。阿片のほうは、よしたのかしら。あなたは、ごはんをすませなさい。それから今夜は、三人でこの部屋におやすみ。直治のお蒲団を、まんなかにして」
 私は泣きたいような気持になった。
 夜ふけて、直治は、荒い足音をさせて帰って来た。私たちは、お座敷に三人、一つの蚊帳にはいって寝た。
「南方のお話を、お母さまに聞かせてあげたら?」
 と私が寝ながら言うと、
「何も無い。何も無い。忘れてしまった。日本に着いて汽車に乗って、汽車の窓から、水田が、すばらしく綺麗に見えた。それだけだ。電気を消せよ。眠られやしねえ」
 私は電燈を消した。

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