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太宰治「斜陽」3
絶望みたいなものをさえ感じる事がある。いつか、西片町のおうちの奥庭で、秋のはじめの月のいい夜であったが、私はお母さまと二人でお池の端のあずまやで、お月見をして、狐の嫁入りと鼠の嫁入りとは、お嫁のお支度がどうちがうか、など笑いながら話合っているうちに、お母さまは、つとお立ちになって、あずまやの傍の萩のしげみの奥へおはいりになり、それから、萩の白い花のあいだから、もっとあざやかに白いお顔をお出しになって、少し笑って、
「かず子や、お母さまがいま何をなさっているか、あててごらん」
とおっしゃった。
「お花を折っていらっしゃる」
と申し上げたら、小さい声を挙げてお笑いになり、
「おしっこよ」
とおっしゃった。
ちっともしゃがんでいらっしゃらないのには驚いたが、けれども、私などにはとても真似られない、しんから可愛らしい感じがあった。
けさのスウプの事から、ずいぶん脱線しちゃったけれど、こないだ或る本で読んで、ルイ王朝の頃の貴婦人たちは、宮殿のお庭や、それから廊下の隅などで、平気でおしっこをしていたという事を知り、その無心さが、本当に可愛らしく、私のお母さまなども、そのようなほんものの貴婦人の最後のひとりなのではなかろうかと考えた。
さて、けさは、スウプを一さじお吸いになって、あ、と小さい声をお挙げになったので、髪の毛? とおたずねすると、いいえ、とお答えになる。
「塩辛かったかしら」
けさのスウプは、こないだアメリカから配給になった罐詰のグリンピイスを裏ごしして、私がポタージュみたいに作ったもので、もともとお料理には自信が無いので、お母さまに、いいえ、と言われても、なおも、はらはらしてそうたずねた。
「お上手に出来ました」
お母さまは、まじめにそう言い、スウプをすまして、それからお海苔で包んだおむすびを手でつまんでおあがりになった。
私は小さい時から、朝ごはんがおいしくなく、十時頃にならなければ、おなかがすかないので、その時も、スウプだけはどうやらすましたけれども、食べるのがたいぎで、おむすびをお皿に載せて、それにお箸を突込み、ぐしゃぐしゃにこわして、それから、その一かけらをお箸でつまみ上げ、お母さまがスウプを召し上る時のスプウンみたいに、お箸して、まるで小鳥に餌をやるような工合いにお口に押し込み、のろのろといただいているうちに、
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