無料公開作品


太宰治「斜陽」28

深い溜息をおつきになり、
「昔の事を言ってもいい?」
「どうぞ」
 と私は小声で言った。
「あなたが、山木さまのお家から出て、西片町のお家へ帰って来た時、お母さまは何もあなたをとがめるような事は言わなかったつもりだけど、でも、たった一ことだけ、(お母さまはあなたに裏切られました)って言ったわね。おぼえている? そしたら、あなたは泣き出しちゃって、……私も裏切ったなんてひどい言葉を使ってわるかったと思ったけど、……」
 けれども、私はあの時、お母さまにそう言われて、何だか有難くて、うれし泣きに泣いたのだ。
「お母さまがね、あの時、裏切られたって言ったのは、あなたが山木さまのお家を出て来た事じゃなかったの。山木さまから、かず子は実は、細田と恋仲だったのです、と言われた時なの。そう言われた時には、本当に、私は顔色が変る思いでした。だって、細田さまには、あのずっと前から、奥さまもお子さまもあって、どんなにこちらがお慕いしたって、どうにもならぬ事だし、……」
「恋仲だなんて、ひどい事を。山木さまのほうで、ただそう邪推なさっていただけなのよ」
「そうかしら。あなたは、まさか、あの細田さまを、まだ思いつづけているのじゃないでしょうね。行くところって、どこ?」
「細田さまのところなんかじゃないわ」
「そう? そんなら、どこ?」
「お母さま、私ね、こないだ考えた事だけれども、人間が他の動物と、まるっきり違っている点は、何だろう、言葉も智慧も、思考も、社会の秩序も、それぞれ程度の差はあっても、他の動物だって皆持っているでしょう? 信仰も持っているかも知れないわ。人間は、万物の霊長だなんて威張っているけど、ちっとも他の動物と本質的なちがいが無いみたいでしょう? ところがね、お母さま、たった一つあったの。おわかりにならないでしょう。他の生き物には絶対に無くて、人間にだけあるもの。それはね、ひめごと、というものよ。いかが?」
 お母さまは、ほんのりお顔を赤くなさって、美しくお笑いになり、
「ああ、そのかず子のひめごとが、よい実を結んでくれたらいいけどねえ。お母さまは、毎朝、お父さまにかず子を幸福にして下さるようにお祈りしているのですよ」
 私の胸にふうっと、お父上と那須野をドライヴして、そうして途中で降りて、その時の秋の野のけしきが浮んで来た。萩、なでしこ、りんどう、

目次 次へ

作品一覧に戻る

無断転載・転用禁止
太宰治の歩み