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太宰治「斜陽」25

まともの人間でさえ少し狂ったような気分になる、中毒のなおったばかりの半病人なら、すぐ発狂気味になって、何を仕出かすか、わかったものでない、それで、直治が帰って来たら、すぐこの伊豆の山荘に引取って、どこへも出さずに、当分ここで静養させたほうがよい、それが一つ。それから、ねえ、かず子、叔父さまがねえ、もう一つお言いつけになっているのだよ。叔父さまのお話では、もう私たちのお金が、なんにも無くなってしまったんだって。貯金の封鎖だの、財産税だので、もう叔父さまも、これまでのように私たちにお金を送ってよこす事がめんどうになったのだそうです。それでね、直治が帰って来て、お母さまと、直治と、かず子と三人あそんで暮していては、叔父さまもその生活費を都合なさるのにたいへんな苦労をしなければならぬから、いまのうちに、かず子のお嫁入りさきを捜すか、または、御奉公のお家を捜すか、どちらかになさい、という、まあ、お言いつけなの」
「御奉公って、女中の事?」
「いいえ、叔父さまがね、ほら、あの、駒場の」
 と或る宮様のお名前を挙げて、
「あの宮様なら、私たちとも血縁つづきだし、姫宮の家庭教師をかねて、御奉公にあがっても、かず子が、そんなに淋しく窮屈な思いをせずにすむだろう、とおっしゃっているのです」
「他に、つとめ口が無いものかしら」
「他の職業は、かず子には、とても無理だろう、とおっしゃっていました」
「なぜ無理なの? ね、なぜ無理なの?」
 お母さまは、淋しそうに微笑んでいらっしゃるだけで、何ともお答えにならなかった。
「いやだわ! 私、そんな話」
 自分でも、あらぬ事を口走った、と思った。が、とまらなかった。
「私が、こんな地下足袋を、こんな地下足袋を」
 と言ったら、涙が出て来て、思わずわっと泣き出した。顔を挙げて、涙を手の甲で払いのけながら、お母さまに向って、いけない、いけない、と思いながら、言葉が無意識みたいに、肉体とまるで無関係に、つぎつぎと続いて出た。
「いつだか、おっしゃったじゃないの。かず子がいるから、かず子がいてくれるから、お母さまは伊豆へ行くのですよ、とおっしゃったじゃないの。かず子がいないと、死んでしまうとおっしゃったじゃないの。だから、それだから、かず子は、どこへも行かずに、お母さまのお傍にいて、こうして地下足袋をはいて、お母さまにおいしいお野菜をあげたいと、

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