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太宰治「斜陽」15
これが私たち親子が神さまからいただいた短い休息の期間であったとしても、もうすでにこの平和には、何か不吉な、暗い影が忍び寄って来ているような気がしてならない。お母さまは、幸福をお装いになりながらも、日に日に衰え、そうして私の胸には蝮が宿り、お母さまを犠牲にしてまで太り、自分でおさえてもおさえても太り、ああ、これがただ季節のせいだけのものであってくれたらよい、私にはこの頃、こんな生活が、とてもたまらなくなる事があるのだ。蛇の卵を焼くなどというはしたない事をしたのも、そのような私のいらいらした思いのあらわれの一つだったのに違いないのだ。そうしてただ、お母さまの悲しみを深くさせ、衰弱させるばかりなのだ。
恋、と書いたら、あと、書けなくなった。
二
蛇の卵の事があってから、十日ほど経ち、不吉な事がつづいて起り、いよいよお母さまの悲しみを深くさせ、そのお命を薄くさせた。
私が、火事を起しかけたのだ。
私が火事を起す。私の生涯にそんなおそろしい事があろうとは、幼い時から今まで、一度も夢にさえ考えた事が無かったのに。
お火を粗末にすれば火事が起る、というきわめて当然の事にも、気づかないほどの私はあの所謂「おひめさま」だったのだろうか。
夜中にお手洗いに起きて、お玄関の衝立の傍まで行くと、お風呂場のほうが明るい。何気なく覗いてみると、お風呂場の硝子戸が真赤で、パチパチという音が聞える。小走りに走って行ってお風呂場のくぐり戸をあけ、はだしで外に出てみたら、お風呂のかまどの傍に積み上げてあった薪の山が、すごい火勢で燃えている。
庭つづきの下の農家に飛んで行き、力一ぱいに戸を叩いて、
「中井さん! 起きて下さい、火事です!」
と叫んだ。
中井さんは、もう、寝ていらっしゃったらしかったが、
「はい、直ぐ行きます」
と返事して、私が、おねがいします、早くおねがいします、と言っているうちに、浴衣の寝巻のままでお家から飛び出て来られた。
二人で火の傍に駈け戻り、バケツでお池の水を汲んでかけていると、お座敷の廊下のほうから、お母さまの、ああっ、という叫びが聞えた。私はバケツを投げ捨て、お庭から廊下に上って、
「お母さま、心配しないで、大丈夫、休んでいらして」
と、倒れかかるお母さまを抱きとめ、お寝床に連れて行って寝かせ、また火のところに飛んでかえって、
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