作家時代

1933年、短編「列車」を『サンデー東奥』に発表。同人誌『海豹』に参加し、「魚服記」を発表。1935年、「逆行」を『文藝』に発表。初めて同人誌以外の雑誌に発表したこの作品は、第1回芥川賞候補となったが落選(このとき受賞したのは石川達三『蒼氓』)。その後、都新聞社に入社できず、またも自殺未遂。また、この年、佐藤春夫を知り師事する。1936年、前年のパビナール中毒が進行し治療に専念するも、処女短編集『晩年』を刊行。翌年小山初代(1912-1944)とカルモチン自殺未遂。一年間筆を絶ったが、「姨捨」で復活。

1938年(昭和13年)、井伏鱒二の招きで山梨県御坂峠にある天下茶屋を訪れ、井伏の仲人で甲府市出身の石原美知子(1912-1997)と結婚。甲府市御崎町(現・朝日)に住み、精神的にも安定した。「富嶽百景」など山梨県を舞台とする作品を書いた。1947年、没落華族を描いた長編小説、『斜陽』を刊行。

生活のために、黒木舜平という筆名で心理サスペンス小説「断崖の錯覚」を書いたこともあるが、太宰自身はこの作品を恥じていた。

39年の生涯で4回の自殺未遂を繰り返し、1948年(昭和23年)に玉川上水(東京都北多摩郡三鷹町)における愛人・山崎富栄(1917-1948)[1]との入水心中により生命を絶つ(同6月13日)。この事件は当時からさまざまな憶測を生み、愛人による無理心中説、狂言心中失敗説等が唱えられている。2人の遺体が発見されたのは、奇しくも太宰の誕生日である6月19日の事であった。この日は桜桃忌(おうとうき)として知られ、太宰の墓のある三鷹の禅林寺には多くの愛好家が訪れる。
太宰治記念館「斜陽館」
太宰治記念館「斜陽館」

太宰治の出身地・青森県金木町でも桜桃忌の行事をおこなっていたが、生地金木には生誕を祝う祭りの方が相応しいとして、遺族の要望もあり、生誕90周年となる1999年(平成11年)から「太宰治生誕祭」に名称を改めた。

金木の生家は、太宰治記念館「斜陽館」として公開され、国の重要文化財に指定されている。


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太宰治の歩み